あなたも、流域の住人

最終回のひとつ前に、この連載が歩いてきた長い道のりを、もういちど、あなたの足もとへと引き寄せてみたいと思います。

これまで、文明の大河から、神話の聖なる川、村の用水、近代の堤防、そして国の流域治水まで、ずいぶん遠くまで旅をしてきました。けれど、この連載が、ほんとうに伝えたかったことは、たぶん、とても近いところにあります。あなたも、いま、どこかの流域の住人である、ということ。ただ、それだけのことです。

蛇口の水は、どこから来たか

ためしに、台所の蛇口をひねってみてください。流れ出てくる水は、いったい、どこから来たのでしょうか。

その水は、どこかの川か、地下水か、ダムから来ています。その川の上流には、雨を受け止める森があり、水をたくわえる土があります。あなたが今日、口にした水は、もとをたどれば、どこかの山に降った雨です。第IV部で見た、針江の人びとが「山からの預かりもの」と呼んだ、あの水と、同じものです。私たちは、誰もが、毎日、流域から水を受け取って、生きています。蛇口をひねるという、なんでもない動作の向こうに、森と、川と、雨の、長い道のりがつながっているのです。

では、もう一方の問いです。あなたが流した水は、どこへ行くのでしょうか。台所の排水も、お風呂の水も、雨どいから落ちる雨も、下水や水路を通って、やがて、どこかの川にたどり着き、海へ出ます。その途中には、下流の町があり、田畑があり、誰かの暮らしがあります。あなたが受け取る水にも、あなたが手放す水にも、上流と下流の、見えない誰かがつながっている。第I部で語った「上流と下流の倫理」は、遠い村の話ではなく、いまの、あなたの蛇口と排水口の話なのです。

自分の流域を、知ってみる

流域の住人であることに気づく、いちばんかんたんな方法は、自分の流域を、知ってみることです。

第I部で、流域地図の作り方を紹介しました。あらためて、やってみませんか。あなたの家のいちばん近くを流れる川か、水路を、思い浮かべてみてください。その水は、どこへ流れていくでしょうか。地図で追いかけていけば、やがて、大きな川につながり、海へ出るはずです。あなたの家は、その川の流域の、どのあたりにあるでしょうか。谷の底でしょうか、丘の上でしょうか。雨の日に外を歩けば、道の水が、どちらへ流れているかも、見えてきます。

これは、防災のためでもあります。第VI部で見た生命圏再適応の話のように、自分の土地が、流域のどんなかたちの上にあるかを知っておくことは、いざというとき、自分の身を守る知恵になります。けれど、それだけではありません。自分の流域を知ることは、自分が、どんな大きなめぐりのなかに住んでいるのかを、知ることでもあります。住所という区画ではなく、水の流れという、生きたつながりのなかに、自分を置きなおしてみる。すると、毎日の風景が、少し違って見えてきます。いつも渡る橋の下の川が、急に、自分の暮らしとひとつながりのものとして、立ちあらわれてくるのです。

大きな問いに、つぶされないために

流域の住人として生きる、というと、大げさな使命のように聞こえるかもしれません。けれど、そうではありません。

第VI部で、バイオリージョナリズムの「地球規模で考え、足もとで動く」という言葉を紹介しました。気候変動も、水害も、あまりに大きくて、ひとりの力では、どうにもならないように感じられます。その大きさに、押しつぶされて、何もできなくなってしまう。けれど、流域という単位は、その大きすぎる問題を、手の届く大きさに、翻訳してくれます。地球を救うことはできなくても、自分の流域を知り、気づかうことは、できます。近くの川に目を向ける。雨の行方を意識する。自分の暮らしが、どこから水を受け、どこへ水を返しているかを、知っておく。その小さな気づきが、第I部の窪みの話のように、地球じゅうの流域とつながっています。

ここで、大切なことを言い添えておきます。これは、こうしなさい、という教えではありません。流域の住人であることは、義務ではなく、ひとつの、世界の見方です。知れば、世界が少し広がり、足もとの風景が、少し深くなる。そういう、贈りもののような気づきです。受け取るかどうかは、あなたの自由です。ただ、この連載が、その気づきの、小さなきっかけになれたなら、これにまさる喜びはありません。

あなたも、流域の住人が伝えるもの

流域の住人である、という気づきは、私たちに、足もとの暮らしの、新しい奥行きを見せてくれます。

それは、蛇口の水も、排水口の水も、流域という大きなめぐりにつながっているということ。自分の流域を知ることが、身を守る知恵であると同時に、自分の居場所を知り直すことでもあるということ。そして、大きすぎる問題を、足もとの手の届く単位に翻訳してくれる、ということです。あなたは、すでに、どこかの流域の住人でした。気づいていなかっただけで。

さて、いよいよ、次が最後の回です。この連載と、もうひとつの蔵書「庭の人文誌」とをあわせた、長い旅の、結びへ向かいます。庭から、流域へ。所有から、帰属へ。そして、いのちの、大きなめぐりへ。


参考にした資料

  • 岸由二『「流域地図」の作り方 ── 川から地球を考える』(ちくまプリマー新書, 2013)
  • 岸由二『生きのびるための流域思考』(ちくまプリマー新書, 2021)
  • (第I部「流域とは何か」・第VI部「流域思考の誕生」)

── この章は、蔵書「流域の人文誌」の一冊です。

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