前回、自然の力を防災に生かすEco-DRRという考え方を見ました。今回は、その考え方が、もっとも大胆なかたちで現れる現場を取り上げます。近代が消した氾濫原を、意図して取り戻す試みです。
第V部で見たように、近代の治水は、川を堤防で締め切り、あふれる余地をなくしていきました。その結果、川と陸のあいだにあった氾濫原という生態系が、消えました。いま、世界の各地で、その流れを、逆向きに巻き戻そうとする動きが起きています。川に、もう一度、あふれてよい空間を返す。日本とオランダの、二つの物語をたどります。
あふれさせない、から、上手にあふれさせる、へ
発想の転換を、ひとことで言えば、こうなります。「あふれさせない」治水から、「決めた場所で、上手にあふれさせる」治水へ。
これは、まったく新しい発想に聞こえるかもしれません。けれど、この連載を読んでこられた方は、すでに、聞き覚えがあるはずです。そう、第II部と第V部で見た、霞堤——信玄堤にも連なる、締め切らない堤の知恵です。わざと切れ目をあけ、あふれてよい場所を決めておき、そこで水の勢いを殺す。あの古い知恵が、近代の「締め切る」時代をくぐり抜けて、現代の科学とともに、よみがえろうとしているのです。違うのは、いまは、どこをどれだけあふれさせれば、どれだけ下流が安全になるかを、数字で見積もれるようになったこと。霞堤の直観に、計算という裏づけがついた、と言ってもよいでしょう。先祖返りでありながら、ただの後戻りではない。これが、氾濫原の再生のもつ、二重の意味です。
渡良瀬遊水地 ── 乾いた土地を、湿地に戻す
日本での代表的な例が、関東平野にある、渡良瀬遊水地です。
ここはもともと、いくつもの川が集まる、広大な低湿地でした。洪水のときに水を受け止める、巨大な遊水地として整えられてきた土地です。けれど、長い年月のあいだに、この遊水地は、しだいに乾いていきました。水をためる機能を高めるための工事や、土地の利用のなかで、かつての湿地は、乾いた草地へと変わっていったのです。湿地に生きていた、めずらしい植物や、昆虫や、鳥たちは、すみかを失い、姿を消していきました。
そこで、二十一世紀に入ってから、ひとつの試みが始まります。乾いてしまったこの土地の一部を、もう一度、湿地に戻そう、というのです。地面を浅く掘り下げて水がたまるようにし、かつての湿地の環境を、人の手で呼び戻していく。すると、土のなかで長い眠りについていた湿地の植物の種が、ふたたび芽を出しはじめました。湿地を好む生き物も、少しずつ戻ってきています。これは、洪水を受け止めるという防災の機能と、失われた湿地の生態系を取り戻すという自然再生とを、同時に果たそうとする試みです。前回見た、Eco-DRRの考え方が、広大な土地の上で、現実のかたちをとっているのです。
オランダの「川に、空間を」
海の向こうにも、よく似た、けれどもっと大がかりな試みがあります。オランダの、「川に空間を返す」と呼ばれる、国をあげての事業です。
国土の多くが海面より低いオランダは、長いあいだ、堤防を高くすることで、水と闘ってきました。けれど、二十世紀の終わりに大きな洪水の危機を経験したオランダは、考え方を転換します。堤防を、ただ高くしつづけるのには、限界がある。それよりも、川に、もっと広がる空間を与えよう、と。具体的には、川沿いの堤防を、あえて川から後退させて、川幅を広げる。堤防のあいだの土地を掘り下げて、増水時に水が広がれる場所をつくる。場所によっては、人が住んでいた区域を移転させてまで、川に空間を返しました。水を、せまい水路に閉じこめて押さえつけるのではなく、ゆとりのある空間に受け入れて、水位そのものを下げる。発想は、渡良瀬と同じです。川を締めつけるのをやめ、川に、息のできる場所を返す。
ここで、第V部で見たことを思い出してみてください。日本もオランダも、近代には、お雇い外国人の時代を通じて、堤防で川を締め切る治水を進めた仲間でした。その両国が、いま、そろって、川に空間を返す方へと舵を切りつつある。締め切る時代を徹底的に生きたからこそ、その限界も知りつくし、次の段階へ進もうとしている。これは、世界規模での、大きな方向転換の現れなのです。
取り戻すことの、むずかしさ
ただし、氾濫原を取り戻す試みは、けっして簡単ではありません。そのことも、正直に書いておきたいと思います。
一度、乾いて、宅地や農地になった土地を、もう一度、湿地や遊水地に戻すには、その土地を使ってきた人びとの、暮らしと権利の問題が、避けて通れません。先祖代々の田畑を、水のために手放せるか。長く住んだ家を、移れるか。氾濫原の再生は、技術の問題である以上に、人の暮らしと、合意の問題です。だからこそ、それが実現した場所では、行政だけでなく、地元の人びと、研究者、さまざまな立場の人びとが、長い時間をかけて話し合い、折り合いをつけてきました。川に空間を返すとは、人の側が、少し場所を譲る、ということでもあります。その譲り合いの合意があってはじめて、自然を生かした防災は、絵に描いた餅ではなくなるのです。
川に空間を返すが伝えるもの
氾濫原と遊水地の再生は、私たちに、治水の大きな転回を見せてくれます。
それは、「あふれさせない」から「決めた場所で上手にあふれさせる」への転換であり、霞堤、すなわち締め切らない堤の知恵が、科学とともによみがえる先祖返りであること。渡良瀬遊水地やオランダの事業のように、防災と自然再生を同時に果たそうとする試みが、すでに現実に動いていること。そして、それが、人びとが場所を譲り合う、長い合意の上にしか成り立たない、ということです。川に空間を返すとは、人と川とが、もう一度、場所を分け合いはじめる、ということなのです。
次回は、この「あふれてよい場所」を、特別な遊水地としてではなく、人びとの暮らしの営みのなかに見いだした、美しい例を取り上げます。冬に水を張った田んぼが、湿地によみがえる。宮城県の蕪栗沼と、ふゆみずたんぼの物語です。
参考にした資料
- 国土交通省 関東地方整備局 利根川上流河川事務所「渡良瀬遊水地の湿地保全・再生」 https://www.ktr.mlit.go.jp/tonejo/tonejo00153.html
- Dutch Water Sector「Room for the River(川に空間を)── オランダ政府(Rijkswaterstaat)の事業」解説 https://www.dutchwatersector.com/room-for-the-river
- 西廣淳ほか『人と生態系のダイナミクス5 河川の歴史と未来』(朝倉書店, 2021)
── この章は、蔵書「流域の人文誌」の一冊です。
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