第VI部の最後に、流域思考が最後にたどり着いた、いまの時代の問いに向き合います。気候が変わり、雨の降り方そのものが激しくなりつつある時代に、私たちは、どう生きのびていくのか。岸由二が、生命圏再適応と呼ぶ考え方です。
これまで見てきた流域思考は、川を治め、谷を残す知恵でした。ここへ来て、その思考は、もっと大きく、もっと切実な問いへと開いていきます。私たちは、どの流域に帰属して、生きのびるのか。第I部の冒頭で立てた問いが、ここで、ただの世界の見方ではなく、生き延びるための問いとして、返ってきます。
雨の降り方が、変わってきた
近ごろ、雨の降り方が、以前と変わってきた——そう感じている方は、少なくないと思います。短い時間に、たたきつけるように降る、激しい雨。これまで経験したことのないような豪雨。その実感は、気のせいではありません。
気象の観測記録は、短時間の強い雨が、長期的にみて増える傾向にあることを示しています。気候の変動によって、大気がより多くの水分を含めるようになり、ひとたび降るときの雨の量が、底上げされていると考えられています。第V部で見た近代の治水は、過去の雨の記録をもとに、「これくらいの大雨までは防げる」という見積もりで、堤防やダムの規模を決めてきました。けれど、その見積もりの前提だった「過去の雨」そのものが、変わりつつあるのです。想定を超える雨が、これまでより、起こりやすくなっている。堤防を高くしつづければ追いつく、という考え方が、根もとから揺らぎはじめています。
堤防の内と外、ではなく
では、どうすればよいのでしょうか。岸の生命圏再適応という考え方は、ここで、発想の枠組みそのものを、組み替えることを促します。
これまでの安全のイメージは、「堤防の内側は安全、外側は危険」という、線引きでした。堤防という壁の内側にいれば守られる、という考え方です。けれど、想定を超える雨があり得る時代には、その壁は、いつか越えられるかもしれない。だとすれば、「壁の内なら絶対安全」という前提に、暮らしのすべてをあずけてしまうのは、危うい。岸が促すのは、自分の暮らす土地を、堤防の内か外かではなく、流域という地形の全体のなかで捉え直すことです。自分の家は、流域のどのあたりにあるのか。谷の底なのか、丘の上なのか。大雨のとき、水はどこからどこへ流れ、どこにたまるのか。その、土地の成り立ちそのものを知っておくこと。第I部で作った流域地図、母地図が、ここで、生き延びるための地図になります。
これは、堤防が無駄だという話では、けっしてありません。堤防もダムも、これからも必要です。そのうえで、それだけに頼りきらず、流域の地形を読み、いざというときの水の動きを知っておく。壁の中で安心しきるのではなく、自分が大地のどんなかたちの上に住んでいるかを、自覚して暮らす。その重ね合わせが、これからの安全だ、という考え方です。
帰属するとは、引き受けること
ここで、この連載を貫いてきた、帰属という言葉が、新しい重みを帯びてきます。
第I部では、帰属を、「私は、この流域のものだ」という、所属の感覚として語りました。生命圏再適応の文脈では、その帰属は、もうひとつの意味を持ちます。自分の流域を引き受ける、という意味です。自分がどの流域に住んでいるかを知り、その流域の水の癖を学び、いざというときにどう動くかを考え、流域の健康に、暮らしの一部として関わっていく。帰属とは、ただそこに住んでいるという事実ではなく、その土地の成り立ちと運命を、自分のこととして引き受ける態度のことなのです。
岸が「再適応」という言葉に込めたのも、これに近いことだと思います。人類は、長いあいだ、技術の力で自然をねじ伏せ、自然から自分を切り離すことで、安全と便利を手に入れてきました。けれど、気候が変わる時代には、その切り離しの代償が、はっきりと現れはじめています。もう一度、自然の側へ——大地のかたち、水の流れの側へ——暮らしを適応させ直す。流域という、自然が引いた線に、もう一度、私たちの暮らしを沿わせていく。再適応とは、後戻りではなく、自然を知りつくしたうえで、もう一段かしこく、自然とともに生きる道を選び直すことなのです。
第VI部が伝えるもの
流域思考の歩みは、私たちに、世界の見方から、生き延びる構えまでを、ひとつながりに見せてくれました。
それは、進化生態学のまなざしと水害の記憶から生まれ、海の向こうの生命地域主義と響き合い、鶴見川で人を守り、小網代で生命を守り、そして、気候の変わる時代に、流域に帰属して生きのびる、という問いへとたどり着いた、思考の旅です。流域思考は、けっして、ひとりの偉人の理論ではありませんでした。多くの人が、それぞれの川で、それぞれの暮らしで、育ててきた、世界とのつき合い直しの作法です。そしてその核には、つねに、第I部の問いがありました。私たちは、どの流域に属しているのか。
さて、こうして思想は出そろいました。次の第VII部では、この思想が、いま、どんな実践として形になりつつあるかを見ていきます。失われた氾濫原を取り戻し、自然の力そのものを防災に生かす。グリーンインフラと、Eco-DRRと呼ばれる、新しい防災の考え方です。
参考にした資料
- 岸由二『生きのびるための流域思考』(ちくまプリマー新書, 2021)
- 岸由二『流域思考とは何か ── 生命圏再適応への地図戦略』(論考集)
- 気象庁「大雨や短時間強雨の発生頻度の長期変化」 https://www.data.jma.go.jp/cpdinfo/extreme/extreme_p.html
- IPCC 第6次評価報告書(AR6, 2021-2023)── 極端な大雨が増える傾向と気候変動の関連(科学的評価。適応と緩和を分けて論じる)
- 岸由二『「流域地図」の作り方 ── 川から地球を考える』(ちくまプリマー新書, 2013)
── この章は、蔵書「流域の人文誌」の一冊です。
同じことを考えている、近くの棚:

