川を締め切る、1896年河川法と連続堤の時代

日本の川の歴史には、はっきりとした曲がり角があります。1896年、明治29年。河川法という法律が定められた年です。

この年を境に、日本の治水は、「あふれを織りこむ」時代から、「あふれさせない」時代へと、舵を切りました。川を、切れ目のない堤防で、河口まで締め切る。あふれてよい場所を、なくしていく。その転換は、無数の命と暮らしを水害から救いました。同時に、川と人との千年来の関係を、根本から変えることにもなりました。今回は、その曲がり角の物語です。

お雇い外国人と、舟運の時代

明治のはじめ、新政府が川の整備のために招いたのは、オランダ人の技師たちでした。国土の低いオランダは、水との闘いの本場です。なかでもヨハニス・デ・レーケは、三十年あまりも日本にとどまり、各地の川と向き合いました。

意外に思われるかもしれませんが、この時期の河川工事の主眼は、洪水対策ではありませんでした。舟運、つまり川を舟の道として整えることです。鉄道がまだ十分に伸びていない時代、川は物流の幹線でした。そこで、ふだんの水の流れ——低水路——を安定させ、舟が座礁せずに行き来できるようにする工事が、優先されたのです。これを低水工事と呼びます。デ・レーケが心血を注いだ木曽三川の分流工事も、もつれ合う三つの川を分けて、流れを安定させる大事業でした。また彼は、川の上流の山が荒れていれば川は治まらないと見抜き、山腹の砂防工事に力を尽くしたことから、後に「砂防の父」とも呼ばれています。川を、河口だけでなく、流域の山から見ていた人でした。

水害の続発と、河川法

ところが、明治の中ごろ、日本列島は、大水害に次々と見舞われます。1885年には淀川が大きくあふれ、大阪の市街が水に沈みました。1889年には紀伊半島の十津川流域で山々が崩れ、村がまるごと移住を余儀なくされるほどの被害が出ました。

近代国家として歩みはじめた日本にとって、都市と産業が水に浸かることは、もはや見過ごせない損失でした。そして1896年、河川法が制定されます。この法律によって、主要な川は国の管理のもとに置かれ、治水の目標は、はっきりと転換しました。舟運のための低水工事から、洪水を防ぐための高水工事へ。つまり、大水のときの最高水位を見積もり、それを上回る高さの堤防で、川を抑えこむ方針です。折しも、鉄道が全国に伸び、川の舟運は役割を譲りはじめていました。川は、「使う水の道」から、「防ぐべき水の脅威」へと、国家の目のなかで位置づけを変えたのです。

連続堤 ── 川を、一本の線に

高水工事の主役は、連続堤防です。文字どおり、切れ目なく連続した堤防で、川を河口まで挟みこむやり方です。

これは、霞堤とは正反対の思想です。霞堤は、切れ目からあふれさせて勢いを殺しました。連続堤は、切れ目そのものをなくします。あふれてよい場所を残すのではなく、堤防の内側に水を完全に閉じこめ、流域のすべてを等しく守ろうとするのです。増えた水は、どこにも逃がさず、堤防のあいだを一気に海まで走らせる。各地の霞堤の切れ目は、こうして少しずつ閉じられ、あるいは連続堤に置き換えられていきました。

この転換には、前回見たとおり、必然がありました。人びとの暮らしが低地へ広がり、「あふれてよい場所」が現実に消えていたからです。都市も、工場も、鉄道も、水に浸けるわけにはいきません。連続堤は、その時代の要請への、まっすぐな答えでした。そして実際に、堤防は無数の暮らしを守りました。かつて毎年のように水に浸かった土地が、安心して住める町になった。その恩恵の大きさは、いくら強調してもしすぎることはありません。

にじむ境界から、壁へ

けれど、この転換は、目に見える堤防の高さ以上に、深いものを変えていました。川と暮らしとの、境界の質です。

近代より前、川と陸との境は、にじんでいました。ふだんは河原で、大水のときは川になる場所。年によって田になったり、葦原になったりする場所。川は、はっきりした輪郭を持たず、暮らしの側へ、ゆるやかに溶け出していました。人びとは、そのにじみの帯のなかで、漁をし、洗い、遊んでいたのです。連続堤は、このにじみを、一本のくっきりした線に引き直しました。堤防の内側は川、外側は人の土地。境界は、誰の目にも明らかな、越えてはならない壁になりました。

姉の蔵書の言葉を借りれば、これは「囲い込み」です。庭が、塀によって世界から一区画を切り取ったように、近代の治水は、堤防によって、川を国土から切り取りました。ただし、囲われたのは人の側ではなく、川の側です。川は、与えられた水路の内側だけを流れることを許された、いわば囲いのなかの存在になりました。安全という、かけがえのないものと引き換えに、川と人とは、壁ごしの隣人になっていったのです。

締め切る時代が伝えるもの

1896年の転換は、私たちに、近代という時代の選択を見せてくれます。

それは、続発する大水害と、低地へ広がる暮らしを前にした、やむにやまれぬ選択だったこと。連続堤が、実際に無数の命と財産を守ってきたこと。そして同時に、川と暮らしのあいだの、にじむような境界が、はっきりした壁に変わった、ということです。よい悪いと裁く前に、何と何が引き換えになったのかを、正確に見ておきたいと思います。失われたものの姿は、このあとの回で、ゆっくり確かめていきます。

次回は、締め切る思想が、戦後、さらに徹底されていく時代を見ます。山あいに立ち上がる巨大なダムと、都市の川を覆ったコンクリート。川が、暮らしの視界から消えていく物語です。


参考にした資料


── この章は、蔵書「流域の人文誌」の一冊です。

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