ここから第V部に入ります。主題は、近代の治水と、その影です。明治から昭和にかけて、日本の川は、姿を大きく変えました。その変化の意味をはかるために、今回はまず、変わる前の風景を確かめておきたいと思います。
近代より前、日本の人びとは、川とどんな関係を結んでいたのでしょうか。ひとことで言えば、それは「あふれることを、織りこんだ関係」でした。川は、あふれるものです。その前提を受け入れたうえで、被害を小さくし、ときにはあふれた水さえ、暮らしの役に立てる。そんな知恵が、列島のあちこちで育っていました。
締め切らない堤、囲って守る家
第II部で見た、信玄堤に代表される、締め切らない堤の知恵を思い出してみてください。わざと切れ目をあけた、互いちがいの堤、のちに霞堤と呼ばれるかたちです。大水のとき、水はその切れ目から、あらかじめ決められた田畑へあふれ出て、勢いを失い、水位が下がれば、また川へ戻っていきました。
この「締め切らない治水」は、信玄の領地だけのものではありません。同じ発想の堤は、各地の急流河川のほとりに築かれ、受け継がれていきました。あふれた水が運んでくる上流の土は、田畑にとって、天然の肥やしでもありました。洪水は、ただの災いではなく、土地を肥やすめぐみの一面も持っていたのです。エジプトのナイルで見た関係の、日本版がここにあります。
いっぽう、川のほうを締め切らないかわりに、暮らしの側を囲って守る、という知恵もありました。木曽三川の下流、濃尾平野の低地では、集落と田畑のまわりをぐるりと堤防で囲んだ、輪中(わじゅう)と呼ばれる集落が発達しました。さらに家々は、敷地の一角に石垣で土台を高くした水屋(みずや)を建て、食糧や舟を備えて、大水のときの避難場所にしました。川全体を抑えこむのではなく、守るべき場所だけを選んで固める。これも、あふれる前提の設計です。また、川沿いの村々は、竹やぶや木立を帯のように育てて、水害防備林としました。あふれた水の勢いを、緑のクッションで受け止めるのです。
川は、暮らしの一部だった
もうひとつ、忘れてはならないことがあります。近代より前の川は、危険の源であると同時に、暮らしのまんなかにある存在だった、ということです。
道路や鉄道のない時代、川は、物流の大動脈でした。米も、材木も、塩も、川舟が運びました。川岸には湊が栄え、渡し舟が両岸を結びました。川は、漁の場でもありました。鮎を獲り、鯉や鮒を獲り、川の幸は、村のたんぱく源でした。女たちは川で洗い物をし、子どもたちは夏の川で泳ぎを覚えました。川辺は、社交の場であり、遊び場であり、仕事場だったのです。
つまり、人びとは、川の「すぐそば」で生きていました。だからこそ、川の機嫌に敏感でした。水の色、流れの音、上流の空模様。川を毎日見て、触れて、使っている人びとには、川の異変を察する経験知が、自然と備わっていました。あふれることを織りこんだ治水は、こうした、川と地続きの暮らしがあってこそ、成り立っていたのです。
半分ひらいた、囲い
近代前夜の川と人との関係を、この連載の言葉でまとめれば、「半分ひらいた囲い」ということになるでしょう。
人びとは、川を囲おうとしました。堤を築き、輪中をつくり、暮らしを守ろうとしました。その意味では、囲い込みです。けれど、その囲いは、完全に締め切られてはいませんでした。霞堤には切れ目があり、堤の高さはほどほどで、あふれる水の行き先が、勘定に入っていました。水を全面的に支配できるとは、誰も考えていなかったのです。支配ではなく、折り合い。完封ではなく、いなし。庭の蔵書で見た「囲い込み」と、これから見る現代の「囲いをほどく」とのあいだに、もともと日本には、この中間の知恵が、ひろく息づいていました。
近代の前夜
ただし、この古い関係を、美化しすぎてはいけません。あふれる前提の治水は、あふれたときに犠牲になる場所と人が、現にあった、ということでもあります。
しかも、時代は変わりつつありました。人口が増え、新田の開発が進み、人びとの暮らしは、これまで「あふれてよい場所」とされてきた低地へ低地へと、広がっていきます。あふれを受け止めてくれていた田畑や荒れ地が、家と町に変わっていく。あふれてよい場所が消えていけば、あふれを織りこんだ治水は、根もとから成り立たなくなります。川には、もっと確実に、もっと広い範囲を守ることが、求められはじめていました。
そこへ、明治維新がやってきます。西洋の技術と、近代国家の力。日本の川と人との関係は、ここから、千年来なかった速さで、つくり替えられていくことになります。
あふれさせる知恵が伝えるもの
近代前夜の川と暮らしは、私たちに、ひとつの均衡のかたちを見せてくれます。
それは、あふれることを前提に、被害を小さくし、めぐみさえ受け取ろうとした、折り合いの治水。川を暮らしのまんなかに置き、毎日の付き合いのなかで川を知っていた、地続きの感覚。そして、完全な支配をはじめから目指さない、半分ひらいた囲いの思想です。この均衡は、けっして楽園ではありませんでしたが、川と人とが、たがいの性質を知り合った、ひとつの成熟した関係ではありました。
次回は、この関係が一変する瞬間を見ます。1896年、河川法の制定。日本の川が、「締め切る」時代に入った年です。
参考にした資料
- 国土技術政策総合研究所「霞堤」用語解説 https://www.nilim.go.jp/lab/rcg/newhp/yougo/words/008/html/008_main.html
- 国土交通省 中部地方整備局 木曽川下流河川事務所 機関誌『KISSO』Vol.59「特集 輪中のまちから」(輪中・水屋) https://www.cbr.mlit.go.jp/kisokaryu/KISSO/pdf/kisso-VOL59.pdf
- 西廣淳ほか『人と生態系のダイナミクス5 河川の歴史と未来』(朝倉書店, 2021)
── この章は、蔵書「流域の人文誌」の一冊です。
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