満濃池と空海、ため池の国の物語

ここから第IV部に入ります。主題は、日本の水と暮らしです。神話や伝説の水辺から、田んぼと用水路のほとりへ。流域に生きてきた人びとの、日々の知恵をたどります。

最初の舞台は、四国の讃岐、いまの香川県です。ここに、日本最大級の灌漑用ため池、満濃池(まんのういけ)があります。周囲はおよそ20キロメートル。湖と呼びたくなるほどの大きさです。そして、この池の歴史には、日本の歴史でも指折りの有名人が、深くかかわっています。弘法大師、空海です。

雨の少ない国、讃岐

なぜ、讃岐に、これほど大きなため池が必要だったのでしょうか。答えは、空の上にあります。

讃岐平野は、瀬戸内式気候と呼ばれる、雨の少ない土地です。南には四国山地、北には中国山地。湿った風は、二つの山並みに雨を落としてから讃岐へ届くので、平野に降る雨は、全国でも目立って少なくなります。しかも、讃岐の川は短く、雨が降っても、水はあっという間に瀬戸内海へ抜けてしまいます。第II部で見た「総量はあっても、ほしいときに、ほしい場所にない」という日本の水の課題が、ここでは、いちだんと切実だったのです。

だから讃岐の人びとは、ため池を造りつづけました。香川県は、いまも、ため池の数と密度で全国有数の土地です。平野を見わたせば、大小の池が、水玉模様のように散らばっています。その無数の池たちの、いわば王にあたるのが、満濃池でした。創築は、飛鳥時代の終わりごろ、八世紀の初頭と伝えられています。

決壊と、ひとりの僧

けれど、大きな池は、大きな危うさでもありました。818年、満濃池の堤が、決壊します。

ためられていた膨大な水は、ひとたび堤が切れれば、下流の村々を呑む濁流に変わります。朝廷は復旧の工事を始めましたが、難航し、何年たっても堤は閉じませんでした。そこで821年、朝廷は、ひとりの僧を、築池別当(ちくちべっとう、工事の監督役)として讃岐へ送ります。空海です。唐への留学から帰って十数年。当時の空海は、最新の学問を身につけた、当代きっての知識人として知られていました。そして讃岐は、空海の生まれ故郷でもありました。

伝えられるところでは、空海が来ると聞いて、人びとが、雲が集まるように工事に駆けつけた、といいます。郷土の生んだ高僧の徳を慕って、人手が一気にそろったのです。そして工事は、わずか三か月ほどで完成した、と記録は伝えています。何年も止まっていた難工事が、ひとりの人物の到着で動き出す。人を集める力もまた、土木の力なのだということを、この物語は教えてくれます。

弓なりの堤と、水の逃げ道

空海の修築には、技術の面でも、注目すべき点が伝えられています。

ひとつは、堤のかたちです。空海は、堤を、水圧を受ける側に向かって弓なりに張り出す、アーチ状に築いたとされています。まっすぐな堤が水の力を正面から受け止めるのに対し、弓なりの堤は、力を両岸へ受け流します。もうひとつは、余水吐(よすいばき)と呼ばれる仕掛けです。池が満杯になったとき、あふれる水を安全に逃がすための水路を、あらかじめ堤に組みこんでおくのです。

お気づきでしょうか。どちらも、水と正面から戦わない設計です。水の力は、受け流す。あふれる水には、行き場を与えておく。第II部で見た、都江堰や霞堤と同じ家系の知恵が、ここにも流れています。唐で最先端の知識に触れた空海が、その学びをどこまで土木に生かしたのか、細部は伝承の霧のなかにあります。けれど、この池の設計思想が「ふさぐ」ではなく「いなす」の側にあったことは、かたちが物語っています。

境を、整えるということ

ため池の堤とは、考えてみれば、不思議な場所です。堤の内側には、村々の命をつなぐ水がたたえられ、外側には、その水を待つ田畑と暮らしが広がっています。堤は、水と暮らしとを分ける、境界線です。

けれどこの境界は、庭の塀のように、閉じて守るためだけの線ではありません。樋をひらけば水は田へくだり、雨がたまれば池は蓄え、あふれそうになれば余水吐が逃がす。内と外とのあいだで、水をやりとりしつづける、生きた境界です。境を固く閉ざすのでも、なくしてしまうのでもなく、出入りをほどよく整える。満濃池の堤が千二百年働きつづけてきた秘密は、この「境の整え方」にあったと言えるかもしれません。

そして、この池もまた、狭山池と同じ運命をたどりました。空海の修築のあとも、満濃池は何度も決壊し、長く廃れた時代さえはさみながら、そのたびに直され、いまにいたっています。2016年には、世界かんがい施設遺産に登録されました。ここでもやはり、池は、一度の偉業ではなく、終わらない手入れの名前なのです。

満濃池が伝えるもの

満濃池の物語は、私たちに、日本の水の暮らしの原型を見せてくれます。

それは、雨の少ない土地が、ため池の網の目で生きのびてきたこと。決壊という危機が、人びとの信頼を集める一人の僧によって乗り越えられたこと。そして、その設計が、水をふさぐのではなく、受け流し、逃げ場を与える「いなす」思想だったことです。水と暮らしの境を、閉ざさず、ほどよく整えつづける。その営みの千二百年が、この大きな池には、たたえられています。

ところで、ため池に貯めた水は、そのままでは、まだ誰のものでもありません。その水を、どの田に、いつ、どれだけ流すのか。そこにこそ、村の暮らしのいちばん細やかな知恵と、いちばん激しい争いがありました。次回は、水を分ける掟の世界に入ります。


参考にした資料


── この章は、蔵書「流域の人文誌」の一冊です。

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