第III部の最後に、水をめぐる物語のなかで、いちばん重いものに向き合います。人柱(ひとばしら)の伝説です。
荒ぶる川を鎮め、決壊をくり返す堤を完成させるために、生きた人を、土手の底に埋めた——。そう語り継がれる物語が、日本の各地に残っています。最初に断っておくと、これらの多くは伝説であり、実際にどれほど行われたのかは、確かめようがありません。けれど、なぜこれほど重い物語が、水辺に語り継がれてきたのか。そこには、治水という営みの、忘れてはならない一面が映っています。
茨田堤 ── 沈んだ者と、ひょうたんの機知
日本でもっとも古い人柱の物語は、『日本書紀』に記されています。舞台は、淀川。仁徳天皇の時代のこととして語られる、茨田堤(まんだのつつみ)の築造です。
淀川の堤は、築いても築いても、二か所だけが、どうしても切れてしまいました。すると天皇の夢に神があらわれ、二人の男の名を告げて、川の神に捧げよ、と言います。選ばれたのは、武蔵の強頸(こわくび)と、河内の茨田連衫子(まんだのむらじころもこ)という二人でした。強頸は、泣き悲しみながら水に沈められ、その場所の堤は完成した、と書紀は記します。
けれど、もう一人の衫子は、違いました。彼は、ひさご——ひょうたんを二つ、川に投げ入れて、こう言い放ったと語られます。「私を求めているのが、まことの神ならば、このひょうたんを沈めてみせよ。沈められないなら、お前は偽りの神だ。偽りの神のために、この身を捨てることはできない」。ひょうたんは、波にもまれながらも沈まず、流れ去りました。衫子は死なず、そして、彼の受け持ちの堤も、無事に完成したというのです。日本最古の人柱の記事は、不思議なことに、人柱を拒んだ男の機知の物語と、対になっています。千数百年前の書物が、犠牲の物語のすぐ隣に、「本当にその犠牲は要るのか」という問いを、すでに書きとめていたのです。
伝説は、何を語り継いだのか
茨田堤のほかにも、人柱の伝説は各地にあります。淀川の長柄橋の人柱、各地の城や堤に眠るという娘や旅人の話。母が人柱に選ばれたのは自分のひとことのせいだったと知った娘が、口を閉ざしてしまう「雉も鳴かずば」の悲話も、よく知られています。
くり返しになりますが、これらが史実かどうかは、慎重に考える必要があります。発掘によって裏づけられた例は、ほとんど知られていません。多くは、後の時代に物語として育ったものと見られています。けれど、だからこそ、問う価値があります。人びとは、なぜ、こんなにも痛ましい物語を、水辺に置きつづけたのでしょうか。
ひとつには、実際に、水の工事が、命がけだったからでしょう。重機のない時代、増水した川での普請は、人の命をのみこみました。物語の人柱は、名もなく死んでいった実際の犠牲者たちの、記憶の結晶なのかもしれません。もうひとつには、水のおそろしさを、忘れないためです。この堤の下には人が眠っている——そう語り継ぐことは、堤を粗末に扱うな、水を侮るな、という戒めを、世代を超えて手渡すことでもありました。重い物語は、重いものを背負って、運ばれてきたのです。
史実の犠牲 ── 宝暦治水と治水神社
伝説ではなく、史実として刻まれた犠牲も、あります。江戸時代の中ごろ、宝暦年間に行われた、木曽三川の治水工事です。
濃尾平野の西部では、木曽川・長良川・揖斐川という三つの大河がもつれ合うように流れ、洪水が絶えませんでした。1753年、幕府は、遠く離れた薩摩藩に、この難工事を命じます。翌年から、薩摩藩士たちは、慣れない土地で、過酷な工事と、莫大な借財と、疫病に苦しみました。工事中に命を落とした藩士は多数にのぼり、総奉行であった家老の平田靱負(ひらたゆきえ)も、工事の完了を見届けたのち、その地で生涯を閉じました。責めを負っての自害であったと伝えられています。
この史実は、長く語り継がれ、昭和になって、工事の地である岐阜県海津市に、薩摩義士たちを祀る治水神社が建てられました。いまも、揖斐川のほとりに鎮座しています。人柱の伝説と、宝暦治水の史実。性格は違いますが、底でつながっています。水を治めるという営みが、人の命の重さと、切り離せなかったということ。そして人びとが、その犠牲を、祀ることで記憶しつづけてきた、ということです。
技術と祈りは、両輪だった
第II部で見た治水の知恵を、思い出してみてください。信玄堤には、堤の上に祭りを呼んで、人びとに土を踏み固めさせたという伝承がありました。堤の傍らには、しばしば水神の社が祀られています。
つまり、昔の治水は、土木と祈りが、ひとつのものでした。堤を築く手と、神に手を合わせる手は、同じ手だったのです。これを、科学の前の時代の迷信だ、と片づけることは、たやすいことです。けれど、見方を変えれば、こうも言えます。祈りとは、水が人間の完全な支配の下にはない、ということを認める作法だった、と。どれほど堤を固めても、水はときに、人の見積もりを超えてくる。その「超えてくるもの」への畏れを、かたちにしておく場所が、水辺の社であり、祭りであり、そして、痛ましい物語だったのです。
人柱と祈りが伝えるもの
人柱の伝説と治水の祈りは、私たちに、水と人との付き合いの、もっとも深い層を見せてくれます。
それは、水を治める営みが、命の重さと隣り合わせだったこと。痛ましい物語が、犠牲の記憶と、水への戒めを、世代を超えて運んできたこと。そして、技術と祈りが、長いあいだ、治水の両輪だったことです。『日本書紀』が、最古の人柱の記事に、それを拒む機知の物語を並べていたことも、忘れずにおきたいと思います。畏れることと、考えることは、最初から、両立していたのです。
さて、第III部では、水の聖なる顔とおそろしい顔を見てきました。次の第IV部では、日本の水の、いちばん日常の顔に会いに行きます。ため池を造り、水を分け合い、湧き水で暮らしてきた、流域の暮らしの知恵です。最初に取り上げるのは、讃岐の満濃池。そして、その改修に招かれた、ひとりの僧、空海です。
参考にした資料
- 『日本書紀』仁徳天皇紀(茨田堤・強頸と茨田連衫子の記事)
- 治水神社(岐阜県海津市)・宝暦治水と薩摩義士の顕彰資料 https://www.city.kaizu.lg.jp/kosodate/0000000463.html ほか
- 柳田國男『一目小僧その他』(人柱伝承の民俗学的考察)
── この章は、蔵書「流域の人文誌」の一冊です。
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