聖なる川、ガンガーは天から降りてくる

ここから第III部に入ります。これまでは、水を引き、いなし、貯める、技術と知恵の話でした。けれど、人と水との付き合いには、もうひとつの深い層があります。祈りと、神話の層です。

人は、川を、ただの水の流れとして見てきたわけではありません。川を神とあがめ、水辺に物語を住まわせ、洪水に世界の終わりを重ねてきました。第III部では、その聖なる水の世界をめぐります。最初に取り上げるのは、いまも十億をこえる人びとが聖なる川とあおぐ、インドのガンジス川。ヒンドゥーの伝統で、女神ガンガーと呼ばれる川です。

川が、女神である

ガンジス川は、ヒマラヤの氷河に源を発し、インドの平原をおよそ2,500キロメートル流れくだって、ベンガル湾に注ぎます。流域には、数億の人びとが暮らしています。

ヒンドゥーの伝統のなかで、この川は、たんに聖なる川「である」だけではありません。川そのものが、ガンガーという名の女神「である」とされてきました。川岸の聖地、たとえばバラナシには、いまも毎日、数えきれない人びとが沐浴に集まります。ガンガーの水に身を浸せば、罪が清められると信じられているからです。そして、亡くなった人の遺灰をこの川に流せば、魂は輪廻の苦しみから解き放たれる、とも信じられてきました。生まれてから死んだあとまで、人の一生のいちばん深いところに、この川は寄り添っています。

川が信仰の対象になること自体は、世界の各地に見られます。けれど、これほど大きな川が、これほど多くの人びとに、これほど長いあいだ、まるごと神として生きられてきた例は、めったにありません。ガンガーは、川の聖性というものの、もっとも豊かな見本なのです。

天から、降りてきた川

そのガンガーには、出生の物語があります。古代インドの叙事詩などに伝えられる神話によれば、この川は、もともと地上の川ではなく、天を流れる川だったというのです。

物語は、こう語られます。むかし、バギーラタという王がいました。彼の先祖たちは、聖者の怒りに触れて焼き滅ぼされ、その魂は、清めの水を得られないまま、さまよっていました。先祖を救うには、天の川ガンガーを地上に呼びおろし、その水で灰を清めるしかありません。バギーラタは、何代にもわたる先祖の悲願を継ぎ、長く厳しい修行によって、ついに天を動かします。ガンガーが、地上に降りることを承知したのです。

ところが、ここで大きな問題がありました。天の大河が、そのまま地上に落ちれば、その衝撃で、大地は砕け散ってしまいます。そこで、シヴァ神が進み出ました。シヴァは、ヒマラヤの上に立ち、落下してくる天の激流を、おのれの頭で、その豊かな髪で、受け止めたと語られます。荒れ狂う水は、シヴァの髪のあいだを、いく筋にも分かれて、さまよい流れるうちに勢いを失い、やがて、おだやかな流れとなって、ヒマラヤから平原へと注ぎはじめました。これが、地上のガンジス川のはじまりだ、と神話は伝えています。

受け止める、という身ぶり

この神話を、すこし立ち止まって、眺めてみたいと思います。物語の急所は、どこにあるでしょうか。

天の水は、めぐみです。けれど、そのまま受ければ、大地を砕く暴力にもなります。そのあいだに、何かが要る。勢いを受け止め、いく筋にも分け、和らげてから、地上へ渡すもの。神話は、その役目を、シヴァの髪に託しました。考えてみれば、これは、水と付き合う知恵の、もっとも純粋な絵解きです。第II部で見てきたことを思い出してみてください。都江堰は、激流を分けて和らげました。信玄堤は、水の勢いを岩と地形に受け止めさせました。天から降る水を、何かでいったん受け止め、勢いを殺してから、ゆっくり大地へ渡す——技術が何百年もかけてたどり着いた身ぶりを、神話は、神の姿をかりて、ひといきに描いていたのです。

そういえば、雨を屋根や地面でじかに流し去らず、植物と土のくぼみでいったん受け止めて、ゆっくり地中へ渡す——そんな現代の庭の発想にも、この構図はそのまま響きます。神話と土木は、別々の言葉で、同じことを語ることがある。ガンガー降下の物語は、その美しい一例だと思います。

聖なる川が伝えるもの

ガンガーの神話は、私たちに、水の二つの顔と、そのあいだに立つものの大切さを教えてくれます。

水は、罪を清め、魂を解き放つ、聖なるめぐみです。同時に、大地を砕きかねない、おそろしい力です。人びとは、その両方の顔を知っていたからこそ、川を神とあがめ、めぐみと暴力のあいだに、受け止め手の物語を置きました。川の聖性とは、水のありがたさと、おそろしさとを、ひとつの存在のなかに重ねて見る、まなざしのことなのです。

けれど、水のおそろしさが、受け止め手を失って、世界をまるごと呑みこんでしまったら——。人類は、その想像を、くり返し物語にしてきました。大洪水の神話です。次回は、ノアの方舟と、それよりもさらに古い、メソポタミアの洪水物語をたどります。


参考にした資料


── この章は、蔵書「流域の人文誌」の一冊です。

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