第II部の最後に、日本の戦国時代の治水を取り上げます。武田信玄が、いまの山梨県に築いたと伝えられる、信玄堤(しんげんづつみ)です。
この治水には、おどろくべき特徴があります。堤防なのに、わざと、切れ目があいているのです。ふつうに考えれば、堤防の切れ目は、欠陥です。けれど、この切れ目こそが、考え抜かれた知恵でした。あふれることを、はじめから織りこんだ堤。それは、禹の「導いて流す」思想の、日本での見事な開花でした。
暴れ川と、戦国の領主
舞台は、甲府盆地の西のはずれです。ここで、御勅使川(みだいがわ)という川が、釜無川(かまなしがわ)という大きな川に合流していました。
御勅使川は、山地から一気に駆け下りる、勾配の急な暴れ川です。ひとたび大雨が降れば、土砂もろとも盆地へあふれ出し、合流先の釜無川まで暴れさせて、田畑と集落を呑みこみました。この地を治めていた武田信玄は、1542年ごろから、およそ二十年をかけて、この合流点一帯の治水に取り組んだと伝えられています。戦国の領主にとって、治水は、戦と同じくらい重い仕事でした。領地の米の実りが、そのまま国の力だったからです。
勢いを、殺してから合わせる
信玄の治水の組み立ては、一言でいえば、「水の勢いを、段階を踏んで殺していく」というものでした。力ずくで止めるのではありません。あの手この手で、いなしていくのです。
伝えられている仕掛けを、順に見てみましょう。まず、御勅使川の上流側に、石を積んだ突起状の堤(石積出し)を設けて、川の流れる向きそのものを、北へ振りました。さらに、将棋の駒のような形をした分水の堤(将棋頭)で、流れを二つに割り、勢いを分散させます。そして、向きを変えられた流れは、高岩(たかいわ)と呼ばれる天然の岩壁に、正面からぶつかるように導かれました。水の勢いを、岩に受けとめさせて殺してから、ようやく釜無川に合流させるのです。
水と戦うのに、人の築いた壁だけで受けず、水どうしをぶつけ、岩にぶつけ、地形そのものを味方につける。前回までに見た都江堰と、同じ家系の発想です。力には力で、ではなく、流れの性質を読んで、急所だけに手を打つ。戦国の武将の治水が、どこか兵法に似ているのは、偶然ではないのかもしれません。
霞堤 ── わざと切れ目をつくる堤
そして、この治水のいちばんの見どころが、合流点から下流の堤防です。ここに、例の「切れ目」があります。
堤防は、一本につながっていません。短い堤が、雁が列をなして飛ぶように、互いちがいに、少しずつ重なりながら並んでいます。堤と堤のあいだは、あいたままです。すると、どうなるか。大水のとき、川の水位が上がると、水は、この切れ目から、あらかじめ想定された後背地へ、静かに逆流してあふれ出します。あふれた水は、そこでいったん勢いを失い、滞留します。そして、川の水位が下がると、同じ切れ目を通って、ゆっくりと川へ戻っていくのです。
つまりこの堤は、洪水を「防ぐ」のではなく、洪水の置き場所を「決めておく」仕組みです。あふれることは、止められない。ならば、あふれてよい場所と、守るべき場所を、あらかじめ分けておく。あふれた水のエネルギーは殺がれ、田畑には上流の肥えた土が残り、決壊のような破滅的な壊れ方は避けられます。こうした、わざと切れ目をあけた不連続な堤は、のちに霞堤(かすみてい)と呼ばれるようになりました。ただし、この風流な名前そのものは、明治時代になってからのものです。さらに言えば、信玄堤を、そのまま霞堤と呼べるのか、霞堤を信玄が考え出したのかについては、研究者のあいだで、慎重な見方もあります。信玄の名に、後世の知恵が重ねられてきた面も、あるようです。確かなのは、信玄堤が、水を完全には締め切らず、あふれと折り合う、古い治水の系譜に、確かに連なっている、ということです。
なお、信玄堤には、もうひとつ愛らしい伝承があります。築いた堤を固めるために、堤の上に神社の祭りを誘致し、大勢の人に練り歩かせて、土を踏み固めさせた、というのです。史実かどうかはともかく、堤が、土木であると同時に、人びとの暮らしと祭りの場でもあった、という消息を伝えてくれます。
締め切らない、という知恵
霞堤の思想を、一言でいえば、「締め切らない」ということです。水を完全に閉め出すのではなく、水の出入りする余地を、わざと残しておく。
これは、禹の伝説の言葉でいえば、まぎれもなく「疏」の系譜です。水をふさぐのではなく、行き場を与える。そういえば、と気づきます。雨水を排水管で閉め出すのではなく、植物を植えたくぼみにいったん受けとめて、ゆっくり地中へかえす——そんな庭のかたちが、現代の世界で生まれていることを、姉の蔵書の終わりで見ました。水を受けとめ、滞留させ、ゆっくり戻す。四百数十年前の堤と、現代の小さな庭が、規模こそ違え、同じ身ぶりをしているのです。水と折り合う知恵は、時代を越えて、同じかたちに行き着くのかもしれません。
信玄堤が伝えるもの
信玄堤は、私たちに、日本の治水の知恵の、ひとつの頂点を見せてくれます。
それは、水の勢いを、地形と水自身の力でいなしていく、段階の設計。あふれることを前提に、あふれてよい場所を決めておく、霞堤の発想。そして、「締め切らない」ことが、結果として土地と人を守った、という逆説です。第II部でたどってきた水の文明史——気まぐれな川との折り合い、禹の「疏」、都江堰の「分ける」、狭山池の「直しつづける」——は、ここで、「あふれを織りこむ」という知恵にたどり着きました。
さて、ここまでは、技術と知恵の話でした。けれど、水と人との付き合いには、もうひとつの層があります。祈り、神話、信仰です。人は、川を、ただの水の流れとしてではなく、神として、また、おそろしい物語の主役として、見つめてきました。次回からの第III部では、その、聖なる水の世界に入っていきます。最初に取り上げるのは、天から降りてきたと語られる川、インドのガンガーです。
参考にした資料
- 国土交通省 関東地方整備局 甲府河川国道事務所「信玄堤 ── 甲府盆地を水害から守る」 https://www.ktr.mlit.go.jp/koufu/koufu00140.html
- 国土技術政策総合研究所「霞堤」用語解説(呼称は明治期) https://www.nilim.go.jp/lab/rcg/newhp/yougo/words/008/html/008_main.html
- ミツカン 水の文化センター 機関誌『水の文化』32号「治水家の統 ── 信玄堤」 https://www.mizu.gr.jp/kikanshi/no32/02.html
── この章は、蔵書「流域の人文誌」の一冊です。
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