舞台を、日本に移します。日本列島で、人びとが最初に向き合った水の課題は、メソポタミアや中国のような大河の制御とは、少し違うものでした。それは、「水を、どう貯めておくか」という課題です。
日本は、雨の多い国です。それなのに、昔から、水に困る土地が、たくさんありました。今回は、その矛盾に挑んだ、もっとも古い答えのひとつを取り上げます。大阪府の南部に、いまも満々と水をたたえる、狭山池(さやまいけ)です。
貯める、という日本の答え
雨が多いのに、なぜ水に困るのか。理由は、日本の地形にあります。
日本の川は、世界の大河にくらべて、短く、急です。山に降った雨は、わずか一日二日で海へ走り抜けてしまいます。しかも、雨の降り方には、季節の偏りがあります。梅雨と台風の時期に集中して降り、田植えの水がほしい時期と、必ずしも一致しません。つまり日本の水は、「総量は多いのに、ほしいときに、ほしい場所にない」水なのです。
この課題への答えが、ため池でした。雨の多いときに水を蓄え、田植えの季節に流し出す。いわば、時間を越えて水を運ぶ装置です。とくに、大きな川に恵まれない西日本の平野や盆地では、ため池が、稲作の生命線になりました。谷をせき止め、堤を築き、水を貯める。日本列島の水の文明は、川を治めることより先に、まず、池を造ることから本格化していったのです。
記紀に、名が見える池
狭山池は、そのため池の、最古級の現役例です。古さの証言は、まず、書物にあります。『古事記』と『日本書紀』、つまり八世紀に編まれた日本最古の歴史書の両方に、狭山池の名が記されているのです。
さらに近年、考古学が、その古さに、より確かな輪郭を与えました。池の底から見つかった、水を取り出すための樋(とい)に使われた木材を、年輪年代測定という方法で調べたところ、七世紀の前半に伐り出された木であることが、わかったのです。つまり狭山池は、飛鳥時代、いまから千四百年ほど前には、たしかに築かれていたことになります。ただし、最初の築造がいつだったのか、正確な年は、いまも確定していません。「日本最古のため池」と呼ばれながら、その「最初」がいつかは、年代の幅のなかにある。古いものの常として、誕生の瞬間は、霧のなかにあるのです。
直しつづけた、人びとの系譜
そして、狭山池の物語でいちばん心に残るのは、誕生のことよりも、そのあとのことです。この池は、千四百年のあいだ、くり返し壊れ、そのたびに、直されてきました。
奈良時代には、行基(ぎょうき)が改修にかかわったと伝えられています。行基は、民衆とともに各地で橋を架け、池を掘り、布施屋を建てた僧で、のちに東大寺の大仏造立にも力を貸した人物です。鎌倉時代には、重源(ちょうげん)が大改修を行いました。東大寺を焼け跡から再建した、あの勧進僧です。江戸時代のはじめには、片桐且元(かたぎりかつもと)が、堤を高くし、樋を据え直す大改修を指揮しました。豊臣家に仕えた、あの武将です。
時代を代表する僧や武将たちが、入れかわり立ちかわり、この一つの池の手入れに名を連ねている。これは、考えてみれば、おどろくべきことです。池は、造って終わりではありませんでした。土砂はたまり、堤はゆるみ、樋は朽ちます。直しつづけなければ、ため池は死んでしまう。狭山池が千四百年を生きてこられたのは、頑丈だったからではなく、世代を超えて、手をかけつづけた人びとがいたからなのです。
完成しない池
姉の蔵書「庭の人文誌」を読んでくださった方は、ここで、聞き覚えのある響きに気づくかもしれません。完成しない、終わらない、ということが、価値である——庭について見たあの逆説が、ため池にも、そっくりあてはまります。
ため池は、自然の湖ではありません。人がつくった器です。けれど、つくった瞬間から、土砂と、草と、時間が、それを自然へ還そうとします。だから、ため池であり続けるためには、永遠の手入れが要ります。泥をさらい、堤を直し、樋を替える。その営みが続いているあいだだけ、池は池でいられます。狭山池とは、千四百年ものあいだ、一度も終わらなかった事業の名前なのです。いま、池のほとりには博物館が建ち、歴代の堤の断面が、地層のように保存されています。飛鳥の土の上に、奈良の土が、鎌倉の土が、江戸の土が重なる。それは、水とともに生きた人びとの、千四百年ぶんの手の跡です。
人が掘ったから、生き物がいる
ここで、もうひとつ、付け加えておきたいことがあります。ため池は、人の暮らしを支えただけではありませんでした。じつは、たくさんの生き物の、かけがえのない住処にもなってきたのです。
意外に思われるかもしれません。原生の自然ではなく、人が掘った人工の池が、です。けれど、雨の少ない土地に、人がため池を掘り、水をたたえ、手入れをして守りつづけたことで、そこに、止水——流れのない、静かな水——を好む生き物たちの世界が生まれました。水草が茂り、トンボが卵を産み、めだかの仲間や、淡水の貝が暮らす。近代になって、川がコンクリートで固められ、湿地が埋められていくなかで、こうした古いため池が、行き場を失った生き物たちの、最後のよりどころになっている例も、少なくありません。前の節で見た「直しつづける」という営みは、じつは、池を池として保つだけでなく、その生き物たちの世界を、いっしょに守ってきたことになります。人が手を入れることが、自然を壊すのではなく、かえって、ある種の自然を支える。のちの回で見る、冬に水を張った田んぼの話と、根は同じです。
狭山池が伝えるもの
狭山池は、私たちに、日本の水の文明の、はじまりのかたちを見せてくれます。
それは、短く急な川の国で、「貯める」ことから始まった水の知恵。記紀に名が見え、年輪が七世紀を指し示す、けた外れの古さ。そして何より、造ることよりも、直しつづけることこそが本体だった、という事実です。水の器は、一度きりの偉業ではなく、世代を超えて受け渡される、終わらない仕事でした。
次回は、その受け渡しの歴史のなかでも、ひときわ鮮やかな治水術を取り上げます。戦国の世に、川と戦わずに川をいなした、武田信玄の堤。あえて切れ目をつくる堤防、霞堤(かすみてい)の知恵です。
参考にした資料
- 大阪府立狭山池博物館(築造年代・年輪年代測定・歴代改修の展示解説) https://sayamaikehaku.osakasayama.osaka.jp/
- 農林水産省「ため池百選 ── 狭山池」資料 https://www.maff.go.jp/j/nousin/bousai/tameike/pdf/2701_sayama.pdf
- 『古事記』『日本書紀』(狭山池の記載)
- 農林水産省「ため池の保全と生態系配慮」── ため池が在来の水生生物(トンボ・淡水魚・水生植物など)の生息地であり、整備にあたって在来種・絶滅危惧種への配慮が求められること https://www.maff.go.jp/j/nousin/kankyo/kankyo_hozen/tameike.html
── この章は、蔵書「流域の人文誌」の一冊です。
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