前回は、雨の行き先を分ける線、分水嶺の話をしました。今回は、その線の内側の世界に入ります。分水嶺に囲まれて、雨が一つの流れへと集まってくる範囲。集水域(しゅうすいいき)、すなわち流域そのものです。
ここには、大地の隠れた骨組みともいうべき、美しい仕組みがあります。小さな流域が、より大きな流域に収まり、それがさらに大きな流域に収まっていく。入れ子の構造です。この仕組みがわかると、手のひらほどのくぼみから、大河の流域まで、世界がひとつづきに見えてきます。
雨を集める、くぼ地
前回、大地は無数のお椀の集まりだ、と書きました。お椀のふちが分水嶺で、ふちの内側に降った雨は、すべて底へと集まります。その「ふちの内側」全体が、集水域です。
岸由二の定義を、もう一度思い出してみてください。流域とは「雨を集める領域」でした。ここで大切なのは、流域が、川そのもののことではない、という点です。流域とは、川に水を送りこんでいる、土地の全体を指します。森も、畑も、住宅地も、駐車場も、学校の校庭も、その土地に降った雨が最後に同じ川へたどり着くのなら、すべて同じ流域の一員です。川は、いわば流域という体を流れる血管であって、体そのものは、分水嶺に囲まれた大地のほうなのです。
そう考えると、川の見え方が変わってきます。川の水は、どこか遠くから来た、よその水ではありません。その流域に降った雨が、森の土にしみこみ、湧き出し、側溝を伝い、集まってきたものです。つまり、川の水質も、水の量も、流域という体の調子を、そのまま映しています。川を見ることは、流域全体を見ることなのです。
入れ子の、構造
さて、ここからが、流域のいちばん面白いところです。流域には、大きさの決まりがありません。そして、小さな流域は、かならず、より大きな流域のなかに、収まっています。
山あいの、小さな谷を思い浮かべてみてください。そこに降った雨は、細い沢に集まります。その沢のまわりの土地が、いちばん小さな流域です。沢は、やがて、もう少し大きな支流に合流します。すると、その小さな流域は、支流の流域の一部になります。支流は、さらに本流へ注ぎます。支流の流域は、まるごと、本流の流域に含まれます。小さなお椀が、中くらいのお椀に、中くらいのお椀が、大きなお椀に。流域は、こうして、入れ子のかたちで、どこまでも重なっているのです。
しかも、不思議なことに、この入れ子は、どの大きさで切り取っても、よく似た姿をしています。手のひらほどの小さな谷も、巨大な川の流域も、「分水嶺に囲まれ、枝分かれした流れが一点に集まる」という同じかたちをしています。木の枝が、大きな枝も小さな枝も同じように分かれていくのに、似ています。大地は、この相似形のくぼみが、大小無数に組み合わさって、できあがっているのです。
手のひらの流域から、大河まで
この入れ子の感覚を、実際の土地で確かめた、よい物差しがあります。
神奈川県の三浦半島に、小網代(こあじろ)の森と呼ばれる場所があります。浦の川という小さな川の集水域、およそ70ヘクタールが、源流の森から海まで、まるごと残されている谷です。岸由二は、この小網代を物差しにして、こんなふうに語っています。この70ヘクタールの流域を、およそ40倍すれば、鶴見川の流域になる。100倍ほどにすれば、多摩川の流域になる、と。歩いて半時間ほどでひとまわりできる小さな谷と、何百万人もが暮らす大河の流域とが、大きさこそ違え、同じかたちの仲間だ、というのです。
岸は、さらに小さな話もしています。庭の地面を、ちょっとくぼませて、流域のかたちにしてみる。雨が降ると、そのくぼみに、ささやかな分水嶺と、ささやかな流れが生まれます。それを眺めて楽しんでいると、地球じゅうの流域の全部と、すっとつながる感覚が生まれる、と。手のひらサイズのくぼみから、アマゾンの大流域まで、すべては同じ仕組みの、大小の違いにすぎません。足もとの小さなくぼみが、地球の大きな水のめぐりの、ひな形になっているのです。
すべての土地は、どこかの流域にある
そして、ここに、見落とせない事実があります。地上の土地は、ほとんど例外なく、どこかの流域に属している、ということです。
あなたの家も、駅前の交差点も、学校も、どこかの川の集水域のなかにあります。流域の外、という場所は、基本的にありません。人の引いた地図なら、どの市にも属さない土地は、ありえないように整理されています。けれど流域の地図は、整理されるまでもなく、はじめから、すきまなく大地を覆っています。雨は、降った場所がどこであれ、どこかへ流れていくからです。
つまり、流域とは、選んで入る場所ではなく、すでに、誰もがそのなかに住んでいる場所です。気づいているかどうかに、かかわらず。この「すでに属している」という感覚が、この連載の問い——私たちは、どの流域に属しているのか——の土台になります。
集水域が伝えるもの
集水域という見方は、私たちに、大地の隠れた骨組みを見せてくれます。
それは、川が、流域という体の血管であって、土地の全体こそが本体だ、ということ。流域が、手のひらのくぼみから大河まで、同じかたちの入れ子で重なっている、ということ。そして、地上のすべての土地が、すでに、どこかの流域に属している、ということです。世界は、人の区画で埋めつくされる前に、まず、雨を集めるくぼ地で、すきまなく埋めつくされていました。
では、自分がどの流域に住んでいるのかは、どうすれば、わかるのでしょうか。次回は、それを描き出す道具、流域地図を取り上げます。住所を、流れで言い換えてみたとき、世界の見え方が、静かに変わります。
参考にした資料
- 岸由二『「流域地図」の作り方 ── 川から地球を考える』(ちくまプリマー新書, 2013)
- YAMAP MAGAZINE「流域の観点で、足もとから雨降る地球の大地をとらえなおす」(岸由二インタビュー。小網代×40=鶴見川・×100=多摩川、庭のくぼみの話) https://yamap.com/magazine/55224
- 神奈川県「小網代の森」 https://www.pref.kanagawa.jp/docs/d2t/kankyo/p820028.html
── この章は、蔵書「流域の人文誌」の一冊です。
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