いよいよ、第VIII部の、そして、このシリーズ全体の、最後の回です。これまで見てきた「これからの庭」は、自然に委ね、生き物に庭をひらく方へ、少しずつ歩いてきました。今回は、その歩みの、いちばん先にある庭を見ていきます。受けとめるのでも、世話をするのでもなく、手放す。庭を、野生に還す。リワイルディング、つまり「再野生化」と呼ばれる動きです。
この最後の一歩は、ここまでの長い旅が、最初に立てた問いを、そっくり裏返します。人は、庭に何を求めるのか。それが、ここでは、こう変わります。人は、庭を手放すことに、何を求めるのか。
塀の内を、野生に還す ── クネップ
イギリスに、クネップという、広大な農場があります。イザベラ・トゥリーという人が、その再野生化の物語を、『Wilding(野生へ)』という本に記しました。
もうからない農業に行きづまった彼らは、思いきった決断をします。土地を、人の管理から手放し、自然のなりゆきに、まかせてみたのです。すると、おどろくことが起こりました。やぶが茂り、放った大きな動物たちが歩きまわり、何年もしないうちに、めずらしい鳥や虫が、続々ともどってきたのです。人が手を引いた土地が、いのちのあふれる場所へと、よみがえっていきました。
なかでも、心に残るのが、屋敷の、塀に囲まれた庭です。庭のなかの庭ともいうべき、もっとも手をかけられてきたその場所さえ、彼らは、野生を招き入れる庭へと、つくりかえました。第I部で、私たちは、庭の本質が「囲い込み」、つまり世界から一区画を囲い取ることだと見ました。塀に囲まれた庭は、その囲い込みの、いちばん純粋なかたちです。その、もっとも囲われた庭が、ここで、囲いをほどき、野生へとひらかれた。庭の歴史が、ここで、ひとつの極から、正反対の極へと、はっきり振れたのです。
庭の半分を、返す ── マリー・レイノルズ
もう少し、私たちの暮らしに近いところでも、似た声が上がっています。アイルランドの庭師、マリー・レイノルズは、『We Are the ARK』という本で、思いきった呼びかけをしました。
自分の庭の、半分を、その土地に元からあった、野生のいのちに、返そう、というのです。彼女は言います。庭を、人間の美しさのためのものとする考え方は、もう、古いのではないか、と。庭ぜんぶを、人の好みで整えるのではなく、その一部を、虫や草や鳥のために、明けわたす。手をかけないことを、なまけや、放置ではなく、いのちへの贈りものととらえなおす。これは、ここまで見てきた「委ねる」が、ついに「返す」「手放す」にまで行き着いた姿です。
ただし、日本でこれを考えるときは、少し、注意が要ります。日本では、手入れをやめて放っておかれた田畑や、荒れた里山が、すでに、あちこちにあります。けれど、それらは、ゆたかな野生にもどるとはかぎらず、やっかいな草や竹に覆われてしまうことも、少なくありません。手放すことは、ただ立ち去ることとは、違います。ここでもまた、自然をよく見て、ていねいに寄りそう、あの「委ねる」のまなざしが、欠かせないのです。
所有を、手放す ── みんなの庭へ
手放すべきは、土地だけではありません。「自分のもの」という、所有の感覚そのものを、手放す動きもあります。
たとえば、都市のコミュニティガーデンや、ゲリラガーデニングと呼ばれる営みです。1970年代のニューヨークでは、リズ・クリスティたちが、荒れた空き地に、種をまき、花や野菜を育てはじめました。誰のものでもない、都市のすきまを、みんなのための緑に、つくりかえていったのです。第VII部で、私たちは、庭が「所有」から「アクセス」へと移りつつあることを見ました。ここでは、それがさらに進んで、庭が、誰か一人のものであることをやめ、みんなで関わる、共有の場になっていきます。塀の内に閉じた、私だけの庭から、塀をなくした、みんなの庭へ。これも、一つの「手放す」です。
庭を手放すことに、何を求めるのか ── そして、長い旅のおわりに
さて、ここで、このシリーズ全体の、最初の問いに、もう一度、立ち返ってみましょう。
私たちは、ずっと、こう問うてきました。「人は、庭そのものが欲しいのではなく、庭を通して、何を得たいのか」。長い旅の終わりに、その問いは、思いがけない場所にたどり着きました。これからの庭の、いちばん先には、「手放す」という姿があった。だとすれば、問いは、こう裏返ります。人は、庭を手放すことに、何を求めるのか、と。
おそらく、それは、こういうことです。所有することの、重さから、自由になること。すべてを思いどおりにしようとする、その緊張から、ほどけること。そして、自分が、自然の所有者ではなく、ただ、いのちの大きなめぐりに、参加している一人なのだと、思い出すこと。庭を手放すとき、人は、庭を失うのではありません。むしろ、もっと大きな、生きたつながりのなかへ、自分を、ひらいていくのです。第VII部で見たように、その答えもまた、一つに決めつけることはできません。手放すことに何を求めるかも、人それぞれの、空いた宛名のなかにあります。
このシリーズは、「囲い込み」から始まりました。庭とは、世界から一区画を囲い取り、内と外を分ける営みだ、と。そして、いま、その長い物語は、囲いをほどき、内と外の境を、そっとひらくところで、幕を閉じます。庭の歴史は、囲い込みに始まり、囲いをほどく方へと、ひとめぐりして、帰ってきました。けれど、それは、出発点に、ただ戻ったのではありません。囲うことの意味を知りつくしたうえで、もう一度、世界へとひらく。そういう、ゆたかな円環でした。
長いあいだ、おつきあいくださり、ありがとうございました。庭をめぐるこの旅が、あなたが、自分にとっての庭とは何かを、考えるための、小さな手がかりになっていれば、これにまさる喜びはありません。
そして、最後に、雨をめぐる庭が指し示していた、もう一つの旅の入口を、書きとめておきます。庭から、流域へ。一軒の庭の話は、やがて、川や、土地や、わたしたちの暮らす流域全体の話へと、つながっていきます。その大きな水の物語は、また、別のときに、たどってみたいと思います。
(庭の人文誌・了)
参考にした資料
- Isabella Tree『Wilding: The Return of Nature to a British Farm』(Picador, 2018)/Knepp Estate https://knepp.co.uk/
- Mary Reynolds『We Are the ARK』(Timber Press, 2022)/運動公式 https://wearetheark.org/
- Green Guerillas「Our History」(ニューヨークのコミュニティガーデン運動) https://www.greenguerillas.org/history
- 環境省「里地里山の保全」(管理放棄による竹林拡大・植生変化の課題) https://www.env.go.jp/nature/satoyama/
- Richard Reynolds『On Guerrilla Gardening』(Bloomsbury, 2008)
── この章は、蔵書「庭の人文誌」の一冊です。
同じことを考えている、近くの棚:


