所有から、アクセスへ。庭の、これから

ついに、このシリーズの、最後の回です。前回、私たちは、最初の問いに、一つの答えを出しました。「庭が欲しい」とは、名前を持たない深い願いの、誤配された言い換えであり、その宛名は、人それぞれが、自分で書き込むものだ、と。

最後に、この答えをふまえて、これからの庭が、どこへ向かっていくのかを、考えてみたいと思います。そして、ここまでの問いに、ひとつの区切りをつけたいと思います。

所有から、アクセスへ

第IV部の終わりで、いま起きている、ある大きな変化に、ふれました。庭が、「所有」から「アクセス」へと、移り変わりつつある、という変化です。

20世紀の庭の夢は、「庭付きの家を、所有する」ことでした。郊外に、自分の土地を持ち、そこに庭を構える。それが、豊かさの、ゴールでした。けれど、その夢を支えていた条件は、いま、崩れつつあります。人口は減り、土地のあり方は変わり、都市に暮らす多くの人にとって、庭付きの家は、手の届きにくいものに、なってきました。

そのかわりに、広がっているのが、土地を所有しなくても、緑にふれる、という関わり方です。部屋の観葉植物、ベランダの小さな菜園、借りて通う貸し農園、みんなで育てるコミュニティガーデン。緑を「持つ」のではなく、緑に「アクセスする」。庭は、所有するものから、アクセスするものへと、姿を変えつつあるのです。

「はたらき」は、所有しなくても、得られる

この変化は、じつは、このシリーズが、たどり着いた答えと、みごとに響き合います。

前々回、私たちは、「庭らしさ」とは、ある決まった「もの」にではなく、ある場所が持つ「はたらき」に宿る、と気づきました。ゆるく囲われ、見晴らせて、日常から離れ、ただ自分が居ていい。その「はたらき」さえあれば、人は、そこに庭を感じる。

だとすれば、その「はたらき」を得るために、必ずしも、土地を所有する必要は、ないのです。みんなで育てる畑にも、一鉢の植物にも、近くの公園にも、開発をまぬがれた斜面の林にも、いつもの喫茶店の席にも、あの「庭のはたらき」は、宿りえます。人が本当に求めているのが、所有ではなく、あの「はたらき」のほうなのだとしたら、それは、所有しなくても、アクセスするだけで、手にできる。「所有からアクセスへ」という流れは、人が庭に求めるものの、本当のありかと、ぴたりと、重なるのです。

所有の時代は、過ぎてゆくのか

ここで、ぐっと長い目で、いまを眺めてみましょう。

このシリーズの第IV部で見たように、「庭付き一戸建てを所有する」という夢は、人類の歴史のなかでは、ほんの百数十年ほどの、とても新しいものでした。だとすれば、それは、永遠に続くものでも、ないのかもしれません。

もしかすると、五百年後の人びとは、「20世紀の人間が、自分専用の土地に、植物を囲い込んでいた時代」を、私たちが、いまヴェルサイユの庭を眺めるのと、同じような目で、ふり返るのかもしれません。「あれは、所有の時代の、ひとつの特殊な様式だったね」と。私たちが、当たり前だと思っている「庭を所有する」という形も、長い歴史のなかでは、過ぎ去っていく、一つの様式にすぎないのかもしれないのです。

より多くの人に、ひらかれる

けれど、この「所有からアクセスへ」という流れを、寂しい喪失として、受けとる必要は、ありません。むしろ、これは、大きな、ひらけた可能性です。

もし、庭の「はたらき」が、所有しなくても、アクセスするだけで得られるのなら、これまで、庭を持てなかった、はるかに多くの人が、それを手にできるようになります。賃貸に暮らす人も、若い世代も、都市に暮らす人も、土地を持たない人も。庭の喜びは、一部の「持てる者」のものから、もっと多くの人へと、ひらかれていきます。第IV部でたどった、庭の民主化の物語は、ここで、新しい段階を迎えるのです。「みんなが庭を所有する」から、「みんなが、庭のはたらきに、たどり着ける」へ。緑は、共有の場へ、公共の場へ、小さな場へ、見過ごされてきた場へと、ちらばりながら、より多くの人の暮らしに、織り込まれていくのです。

長い旅の、おわりに

さて、ここで、ここまでの問いの旅を、ふりかえってみましょう。最初の問いに、もう一度、立ち返ってみます。

「多くの人は、庭そのものが欲しいのではなく、庭を通して何かを得たいのではないか。本当は、何を求めているのか」。私たちは、この問いを手に、庭の起源から、世界じゅうの庭園史、民主化の道のり、そして、人がなぜ緑に惹かれるのかまでを、たどってきました。

たどり着いた答えは、こうでした。人が「庭が欲しい」と言うとき、求めているのは、失われた場所へ帰ることであり、応えてくれる相手であり、終わらない関わりであり、ただ自分が居ていい場所の「はたらき」です。それらは、名前を持たないまま、「庭」という言葉に、誤って届けられている。そして、その宛名には、人それぞれが、自分の願いの名前を、書き込む。

だとすれば、庭をつくり、庭を語り、緑を手わたす者にできることは、答えを与えることでは、ありません。それは、その「はたらき」にたどり着ける場所を、できるだけ多く、ひらいておくこと。そして、宛名を空けたまま、それぞれの人が、自分の願いを、自分で見つけられる余白を、残しておくことです。

最後に、この問いを、あなたに、おわたしします。あなたは、「庭が欲しい」という、その空いた宛名に、どんな名前を、書き込むでしょうか。その答えは、きっと、あなただけのものです。そして、その答えを探すこと自体が、もう、あなたの庭の、はじまりなのかもしれません。

さて、ここまでで、庭の歴史と、人が庭に求めるものを、ひととおりたどってきました。けれど、最後に、もう一つだけ、見ておきたいことがあります。いま、この時代に、庭は、実際にどう作られはじめているのか、ということです。次の最後の部では、世界のあちこちで静かに芽吹いている、「これからの庭」を訪ねます。そこには、ここまで考えてきた答えが、現実のかたちをとって、立ちあらわれています。


参考にした資料

  • 平山洋介『住宅政策のどこが問題か ―〈持家社会〉の次へ』(光文社新書, 2009)
  • 総務省統計局「住宅・土地統計調査(持ち家率の長期推移)」 https://www.stat.go.jp/data/jyutaku/
  • Robert Pogue Harrison『Gardens: An Essay on the Human Condition』(2008)

── この章は、蔵書「庭の人文誌」の一冊です。

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