誤配としての庭、「庭が欲しい」は何の言い換えか

いよいよ、このシリーズの、最初の問いへの、最終的な答えにたどり着きます。「多くの人は、庭そのものが欲しいのではなく、庭を通して何かを得たいのではないか。では、本当は、何を求めているのか」。

ここまでの、長い旅で見てきたことを、一つの考え方で、束ねてみたいと思います。その考え方とは、「誤配」です。少し聞きなれない言葉ですが、これが、私たちの問いに、もっとも誠実な答えを、与えてくれます。

誤配ということ

誤配とは、本来、手紙が、宛先とは違うところに、届いてしまうことです。けれど、ここで言う誤配は、もう少し広い意味を持っています。人の思いや願いが、ぴったり当てはまる宛先ではなく、たまたま近くにあった、別の何かに、届いてしまうこと。それを、誤配と呼びます。これは、もともと思想家の東浩紀が、人と人との伝達が本質的にはらむ、すれちがいや偶然について論じた言葉です。それを、ここでは庭に引きつけて、使ってみたいと思います。

そして、大切なのは、これを「失敗」と考えない、ということです。むしろ、人の願いというものは、いつも、どこか、ぴったりの宛先には届かない。名前のつかない、もやもやとした思いが、たまたま手近にあった何かに、すっと託される。そうやって、誤って届くことのなかにこそ、人の願いの、本当のかたちがある。そう考えるのです。

「庭が欲しい」という、誤配

この「誤配」を手がかりに、最初の問いを、見直してみましょう。

ここまでのシリーズで、私たちは、人が庭に求めているものを、いくつも見てきました。失われた、まるごと満たされた状態へ、帰りたいという願い。自分の働きかけに、応えてくれる相手が、ほしいという願い。思いどおりにならないものと、終わりなく関わりつづけたいという願い。そして、ゆるく囲われ、ただ自分が居ていい、あの「庭のはたらき」のある場所に、身を置きたいという願い。

これらは、どれも、はっきりとした名前を持たない、もやもやとした、深い願いです。そして、ここが肝心なところですが、人は、こうした名前のない願いを、たまたま手近にあった「庭」という言葉に、託してしまうのです。本当は、「帰りたい」「応えてほしい」「ただ居ていい場所がほしい」という、名前のつかない飢えがある。それが、「庭が欲しい」という、具体的な言葉に、誤って配達される。「庭が欲しい」とは、名前を持たない、もっと深い願いの、誤配された言い換えなのです。

一つの答えに、決めてはいけない

ここで、どうしても、ていねいに言っておきたいことがあります。それは、「庭が欲しい、の本当の意味は、これだ」と、一つの答えに、決めてはいけない、ということです。

人は、つい、こう言いたくなります。「あなたは、本当は庭が欲しいのではない。本当は、癒やしが欲しいのだ」「いや、つながりが欲しいのだ」と。けれど、その瞬間、私たちは、間違えてしまいます。ある人が庭に託している願いは、ある人のそれとは、違います。帰りたい人もいれば、応えてほしい人も、ただ居場所がほしい人もいる。一つの「庭が欲しい」という言葉に、人それぞれ、まったく違う願いが、誤配されているのです。だから、その中身を、一つに決めつけることは、できません。

しかも、第VII部のはじめに見たように、順番は、しばしば逆です。名前のない願いが先にあって、庭を選ぶのではありません。庭に出会い、土にふれ、植物が応えてくれて、はじめて、人は「ああ、自分は、こういうものを、求めていたのか」と、気づくのです。庭という宛先に、誤って届いてみて、はじめて、自分の願いが、その姿を、あらわす。願いは、本物です。けれど、その宛名は、いつも、おおよそのものなのです。

宛名を、空けておく

では、どうすればよいのでしょうか。ここに、このシリーズの、最終的な答えがあります。

「庭が欲しい」という言葉は、宛名を空けたまま、差し出された、一通の手紙のようなものです。そして、その空いた宛名には、人それぞれが、自分の手で、自分の飢えの名前を、書き込みます。ある人は、そこに「時間」と書き、ある人は「応えてくれる相手」と書き、ある人は「帰る場所」と書く。同じ「庭が欲しい」という言葉が、人の数だけ、違う宛名で、満たされていくのです。

だとすれば、庭をつくる人や、庭について語る人が、するべきことは、何でしょうか。それは、「あなたが本当に欲しいのは、これですよ」と、答えを、先回りして書いてあげることではありません。むしろ、その逆です。宛名を、空けたままにしておくこと。人が、自分の手で、自分の願いの名前を書き込める、その余白を、残しておくこと。庭という、誤配の届く場所を、ただ、ひらいておくこと。そうすれば、人は、その庭のなかで、自分が、本当は何を求めていたのかを、自分で、発見していくのです。

誤配としての庭が伝えるもの

「誤配」という視点は、私たちに、最初の問いへの、もっとも誠実な答えを、与えてくれます。

「庭が欲しい」とは、名前を持たない、深い願いの、誤配された言い換えです。その願いの中身は、人それぞれで、一つには決められません。そして、人は、庭に出会って、はじめて、自分の願いの名前に、気づきます。だから、答えは、「本当はこれが欲しいのだ」と、決めつけることのなかには、ありません。答えは、それぞれの人が、自分の手で、宛名を書き込む、その余白のなかに、あるのです。

私たちにできるのは、答えを与えることではなく、その誤配が起きるための、余白を、ひらいておくこと。これが、「人は庭を通して何を求めているのか」という問いへの、私の、最終的な答えです。

最後の次回は、この答えをふまえて、これからの庭が、どこへ向かっていくのかを、考えます。「所有」から「アクセス」へと移りゆく、庭の欲望の、これからの姿です。


参考にした資料

  • 東浩紀『存在論的、郵便的──ジャック・デリダについて』(新潮社, 1998、「誤配」の概念の初出)
  • 東浩紀『観光客の哲学』(ゲンロン, 2017/増補版 2023)
  • 東浩紀『訂正可能性の哲学』(ゲンロン, 2023)

── この章は、蔵書「庭の人文誌」の一冊です。

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