庭と呼ばれない庭、人が「庭」を感じる場所

ここまで、庭への思いを、さまざまな角度から見てきました。今回は、その思いを、思いがけない場所へと、広げてみたいと思います。

世の中には、「庭」と呼ばれないのに、なぜか庭のように感じられる場所が、たくさんあります。じつは、この不思議な場所たちこそが、「人は庭を通して何を求めているのか」という、私たちの問いに、もっとも大きな手がかりをくれるのです。かつて、建築家の西澤文隆は、日本各地の伝統建築と庭を、自らの足で実際に測り歩き、空間を庭たらしめているものは何かを、深く見つめた人でした。じつは、この章の「庭と呼ばれない庭」という題も、西澤が、その実測の集大成のなかで空間を分類したときに用いた言葉から、お借りしています。今回は、その問いを、私たちなりに、たどってみます。

庭と呼ばれない、庭のような場所

少し、思い浮かべてみてください。あなたにとって、なぜか心が落ち着く、あの場所を。

それは、川にかかる橋の下の、ゆるく囲まれた、薄暗いたまりかもしれません。鉢植えがいくつも並び、猫が歩いている、街なかの路地かもしれません。雑居ビルの、ひっそりとした屋上。山の中腹から突き出して、ぱっと景色が広がる、大きな岩の上。いつも座る、喫茶店の、あの特定の席。好きなものを詰め込んだ、自分だけのガレージ。田んぼのあいだを通る、細い畦道。街の景色が見おろせる、坂道や、階段の途中。開発をまぬがれて、ひっそり残った、斜面の林。あるいは、墓苑の静けさや、社寺の境内の、あのひんやりとした空気。

これらは、どれも、「庭」とは呼ばれません。けれど、私たちは、そこに、たしかに、庭のような何かを感じます。心がほどけ、時間の流れが変わり、ふっと、自分に立ち返るような感覚。庭でないのに、庭のように、私たちを受けとめてくれる場所が、世の中には、こんなにもあるのです。

それらが、共通して持つもの

では、これほどさまざまな場所が、共通して持っている「庭らしさ」とは、いったい、何でしょうか。これまでのシリーズで見てきたことが、ここで、思いがけず、役に立ちます。

一つは、ゆるく囲われている、ということです。橋の下も、路地も、喫茶店の席も、完全に閉じてはいませんが、どこか、やわらかく囲まれていて、守られている感じがあります。第I部で見た「囲い込み」が、ここでは、壁ほど厳しくない、ゆるやかなかたちで、はたらいているのです。もう一つは、見渡せて、隠れられる、ということです。景色の広がる巨石や、街を見おろす階段や、屋上には、第VI部で見た「眺望と隠れ家」がそろっています。身を置いて落ち着きながら、遠くまで見晴らせる。そして、もう一つ。これらの場所は、どこか、日常から、少しだけ、ずれています。一歩入ると、いつもの時間の流れから、ほんのわずか、切り離される。畦道や、残された林や、境内には、そんな、別世界へのかすかな入口があります。

「にわ」の、もとの意味へ

これらの場所に共通するものを、もう一歩、煮つめてみましょう。すると、いちばん深いところに、こんな性質が見えてきます。それは、ただ、自分が、そこに居ていい、という感覚です。

橋の下のたまりも、喫茶店の席も、ガレージも、何かを生産する場所ではありません。役に立つ場所でも、評価される場所でもありません。ただ、自分が、そこに、何をするでもなく、居ていい。そういう場所です。そして、そのことが、私たちを、深く、安らがせるのです。

ここで、第I部の、いちばん最初に見たことを、思い出してみてください。日本語の「にわ」は、もともと、植物のある観賞の空間ではなく、「何かが行われる、平らな場所」を意味していました。神をまつる場、人が集う場、何かが起こる場。つまり「にわ」とは、もともと、人や出来事を、受けとめる「場」のことだったのです。

そう考えると、橋の下のたまりも、喫茶店の席も、見おろす階段も、まさに、この本来の意味での「にわ」だと言えます。それらは、植物があるかどうかとは関係なく、人を、その存在を、ただ受けとめてくれる場なのです。庭と呼ばれないこれらの場所は、じつは、もっとも古い意味での「にわ」だったのです。

庭は、名前ではなく、はたらき

ここから、このシリーズ全体にとって、決定的なことが、見えてきます。

「庭」とは、ある種類の「もの」の名前ではない、ということです。それは、ある場所が持つ、「はたらき」のことなのです。ゆるく囲い、見晴らしと隠れ家を与え、日常から少しずらし、そして、ただ人を受けとめる。この「はたらき」が起きている場所を、人は、庭のように感じる。その「はたらき」さえあれば、それが、橋の下であろうと、屋上であろうと、喫茶店の席であろうと、人は、そこに、庭を感じるのです。

これは、最初の問いに、決定的な光を当てます。もし、「庭らしさ」が、どんな場所にも、宿りうるのだとしたら。私たちが「庭が欲しい」と言うとき、本当に欲しいのは、四角く区切られた、植物のある「庭」という、もの、ではないのかもしれません。欲しいのは、あの「はたらき」のほうなのです。ゆるく囲われ、見晴らせて、日常から離れ、ただ自分が居ていい、あの感覚。それを与えてくれる場所を、私たちは、求めている。だから、それは、必ずしも「庭」である必要は、ないのです。

庭と呼ばれない庭が伝えるもの

「庭と呼ばれない庭」という視点は、私たちに、このシリーズで、もっとも大きな気づきをもたらします。

それは、「庭らしさ」が、庭という決まったかたちの「もの」にではなく、ある場所が持つ「はたらき」に宿るということ。橋の下にも、路地にも、屋上にも、その「はたらき」さえあれば、人は庭を感じるということ。そして、私たちが「庭が欲しい」と言うとき、本当に求めているのは、その「はたらき」のほうかもしれない、ということでした。庭は、名前ではなく、はたらきだったのです。

この気づきは、最初の問いへの、最終的な答えを、すぐそこまで、引き寄せてくれます。「庭が欲しい」とは、いったい、何の言い換えなのか。次回は、いよいよ、誤配という考え方を手がかりに、その答えを、はっきりと、かたちにしてみたいと思います。


参考にした資料

  • 西澤文隆「実測図」集刊行委員会 編『建築と庭 西澤文隆「実測図」集』(建築資料研究社, 1997。「庭と呼ばれない庭」の分類を収める)
  • 西澤文隆『西澤文隆小論集2・3・4 庭園論I・II・III』(相模書房, 1975-76)
  • 東京文化財研究所「西澤文隆 物故者記事」 https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9894.html

── この章は、蔵書「庭の人文誌」の一冊です。

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