応えてくれる相手、植物との関係が埋めるもの

前回、私たちが庭に求めているのは、所有ではなく、「応えてくれる相手」との関係なのではないか、という話をしました。では、その「応えてくれる相手」は、私たちのなかの、いったい何を満たしているのでしょうか。今回は、その、もっとも深いところに、目を向けてみます。

ここで見えてくるのは、現代を生きる私たちが、知らず知らず枯渇させている、ある大切なものです。それは、「自分の行いに、応えてくれる相手」の、不在です。

応えてくれる相手の、不在

私たちは、よく、「自然とのつながりが足りない」と言います。けれど、その言葉は、少し漠然としています。もう少し、正確に言いあらわすと、こうなるかもしれません。私たちに足りないのは、「自分の働きかけに、ちゃんと応えてくれる相手」なのではないか、と。

考えてみてください。仕事は、私たちに応えてくれるでしょうか。多くの場合、返ってくるのは、数字や、評価です。それは、応答というより、結果の通知です。スマートフォンは、応えてくれるでしょうか。画面は、こちらが操作したとおりに、動くだけです。それは、応答ではなく、こちらの入力を映し返す、鏡のようなものです。SNSの「いいね」は、応答に見えて、じつは、計算しつくされた、反応の演出かもしれません。

私たちのまわりには、速く、正確で、けれど、本当には応えてくれないものが、あふれています。思いどおりに動くか、計算された反応を返すか。そのどちらかです。自分の働きかけに、相手が、たしかに心を動かして、応えてくれる。そんな経験が、現代の暮らしのなかでは、おどろくほど、少なくなっているのです。

植物は、応えてくれる

そんな世界のなかで、植物は、数少ない、「本当に応えてくれる相手」の一つです。

水をやれば、しおれていた葉が、いきいきとよみがえります。日のあたる場所に移せば、茎が、その方へと伸びていきます。心をこめて世話をすれば、やがて、花を咲かせてくれます。こちらの働きかけに、植物は、たしかに応えてくれるのです。しかも、思いどおりに動くのでも、計算された反応を返すのでもありません。生きているものとして、ゆっくりと、そして、本当に、応えてくれる。

このとき、私たちは、ある大切な感覚を取り戻します。自分のしたことが、ちゃんと、何かに届いている。自分の働きかけが、たしかに、意味を持っている。自分は、この小さな生命に、必要とされている。植物の世話は、私たちに、こうした、生きる手ごたえを、返してくれるのです。それは、応えてくれる相手を失った現代人にとって、何ものにもかえがたい経験なのです。

遅さと、不確かさの、価値

ここで、面白いことがあります。植物の応答の、「遅さ」と「不確かさ」こそが、じつは、大切なのではないか、ということです。

人と人との関係は、応答が、速すぎることがあります。一言が、すぐに、傷つけ合いに変わる。期待が、すぐに、裏切りに変わる。速い応答は、ときに、人を、すり減らせます。その点、植物の応答は、ゆっくりです。水をやっても、花が咲くのは、何日も、ときには何か月も先のことです。この、季節をまたぐような遅さが、応答に飢えた現代人にとっては、ちょうどよい速さなのかもしれません。せかされず、傷つけられず、ゆっくりと返ってくる応答。

そして、その応答は、確実ではありません。心をこめて世話をしても、花が咲かないこともある。枯れてしまうこともある。けれど、その「うまくいくとはかぎらない」という不確かさこそが、応答を、本物にしているのです。かならず返ってくると分かっている反応は、応答ではありません。返ってくるかどうか分からないからこそ、返ってきたときの手ごたえが、深いのです。

庭が、埋めているもの

ここまで来て、最初の問いへの、もう一つの、より深い答えが見えてきます。

庭を世話するとき、私たちが埋めているもの。それは、「自分の行いに応えてくれる相手」の、不在です。速く、計算された、応えのない世界のなかで、ゆっくりと、確かに、こちらの働きかけに応えてくれる、生きた相手。植物は、その、失われた応答を、私たちに返してくれます。庭が欲しいという思いの奥には、この「応えてくれる相手が、ほしい」という、切実な願いが、流れているのではないでしょうか。

ここで、一つ、ていねいに断っておきます。これは、「植物が、人の代わりになる」という、さびしい話ではありません。植物の応答は、人の応答とは、別の種類の、かけがえのないものです。ゆっくりで、不確かで、こちらを評価したり、責めたりしない。そんな、静かで、辛抱づよい、生命の応答。それは、人との関わりとはまた違う仕方で、私たちの心を、深く支えてくれるのです。

応答する他者が伝えるもの

「応えてくれる相手」という視点は、私たちに、庭への欲望の、核心の一つを見せてくれます。

それは、現代の暮らしのなかで、私たちが「自分の行いに応えてくれる相手」を失いつつあること。そして、植物が、ゆっくりと、不確かに、けれど本当に、その応答を返してくれること。庭を世話することは、この失われた応答を取り戻し、「自分の働きかけが、確かに何かに届いている」という、生きる手ごたえを、回復することなのです。

次回は、この関係の、もう一つの大切な性質に目を向けます。庭は、けっして完成しません。そして、じつは、その「終わらなさ」こそが、私たちが本当に求めているものなのではないか、という話です。


参考にした資料


── この章は、蔵書「庭の人文誌」の一冊です。

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