前回、なめらかな芝生が、長いあいだ、富の象徴だったという話をしました。それを保つには、羊の群れか、おおぜいの大鎌の使い手が必要で、ふつうの人びとには手が届かなかったのです。
ところが、1830年、その状況を一変させる、小さな機械が生まれます。芝刈り機です。たった一台の機械が、貴族だけのものだった芝生を、ふつうの人びとの手に渡しました。今回は、この、庭の歴史を静かに変えた発明の物語を見ていきます。
一人の技師の、思いつき
芝刈り機を発明したのは、エドウィン・バディングという、イギリスの技師でした。1830年のことです。
面白いのは、彼がこの仕組みを、まったく別のものから思いついた、という点です。当時の織物工場では、織り上がった布の表面の、けば立った毛を、均一に刈りそろえる機械が使われていました。回転する刃で、表面をなめらかに刈っていく仕組みです。バディングは、これを見て、ひらめきました。同じ仕組みで、芝の草を刈れるのではないか、と。
こうして、回転する刃で芝を刈る、芝刈り機が生まれました。布の毛を刈る機械が、草を刈る機械に生まれ変わったのです。一人の技師の、分野をまたいだ思いつきが、やがて、庭の歴史を大きく動かすことになります。
羊も、おおぜいの働き手も、いらなくなった
この芝刈り機の登場は、芝生をめぐる状況を、根本から変えました。
それまで、広い芝生を美しく保つには、たくさんの羊を放つか、おおぜいの大鎌の使い手を雇うしかありませんでした。どちらも、富がなければできないことです。ところが、芝刈り機があれば、たった一人で、しかも特別な熟練がなくても、芝をきれいに刈りそろえることができます。
羊も、おおぜいの働き手も、もう必要ありません。家の主人が、休みの日に、自分の手で、自分の庭の芝を刈る。そんなことが、はじめて可能になったのです。芝生を保つために必要だった、あの大きな富の壁が、一台の機械によって、ぐっと低くなりました。
機械が、特権を解き放つ
ここに、庭の民主化の、一つの大切な姿があらわれています。庭が、ふつうの人びとのものになっていく後押しをしたのは、美しい理想や思想だけではありませんでした。一台の機械、つまり技術の力も、大きな役割を果たしたのです。
芝刈り機のおかげで、それほど豊かでない中産階級の家庭でも、自分の庭に、きちんと刈り込まれた芝生を持てるようになりました。かつては、貴族の館にしかなかった、なめらかな緑の絨毯。それが、ふつうの家の庭に、小さなかたちで再現できるようになったのです。
これは、芝生だけの話ではありません。芝生を中心にした、観賞のための小さな庭そのものが、中産階級の手の届くものになっていきました。一台の機械が、芝生を解放し、その芝生が、庭そのものを、より多くの人びとに開いていったのです。
庭仕事が、趣味になる
芝刈り機は、もう一つ、大切な変化をもたらしました。庭の手入れが、苦役ではなく、趣味になっていく、という変化です。
おおぜいの使用人に命じて庭を管理させるのではなく、家の主人や家族が、自分の手で、土をいじり、芝を刈り、花を育てる。芝刈り機をはじめとする、扱いやすい道具の広がりは、こうした「自分でやる庭仕事」を、楽しいものに変えていきました。週末に、自分の庭を手入れする。その緑を、自分の手で育てる。庭は、ながめるものであると同時に、自分でつくり、世話をするものになっていったのです。
ここには、庭との関わり方の、大きな転換があります。庭が、使用人にやらせる管理の対象から、自分自身の手で関わる、暮らしの楽しみへと変わっていく。この「自分で世話をする庭」という感覚は、現代の私たちが庭に抱く思いの、とても大切な部分につながっています。
芝刈り機が伝えるもの
一台の芝刈り機の物語は、私たちに、庭の民主化が、どのように進んだかを教えてくれます。
それは、貴族のぜいたくだった芝生を、ふつうの人びとの手に渡し、観賞のための庭を、中産階級に開き、そして、庭の手入れを、自分でやる楽しみに変えた、小さくて大きな発明でした。庭がみんなのものになる道のりには、こうした、目立たないけれど決定的な、技術の後押しがあったのです。
私たちが、当たり前のように、自分の庭の手入れを楽しめるのは、じつは、こうした発明の積み重ねの上に立っているのかもしれません。
次回は、この中産階級の庭が、根を下ろした場所を訪ねます。都市の外に新しく生まれた住まいのかたち、郊外の住宅と、そこで生まれた「庭付き一戸建て」という夢です。
参考にした資料
- Wikipedia「Edwin Beard Budding(芝刈り機の発明者・1830年特許)」 https://en.wikipedia.org/wiki/Edwin_Beard_Budding
- British Lawnmower Museum(芝刈り機の専門館) https://www.lawnmowerworld.co.uk/
- Wikipedia「Lawn mower — History」 https://en.wikipedia.org/wiki/Lawn_mower
── この章は、蔵書「庭の人文誌」の一冊です。
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