日本庭園史(2)、枯山水、水のない水

前回の浄土庭園は、広い池に極楽浄土を映す、水の庭でした。今回見る庭は、その正反対です。水を、一滴も使いません。

白い砂と、いくつかの石。たったそれだけで、大海原や、深い山々や、流れ落ちる滝までも表現してしまう。枯山水(かれさんすい)と呼ばれる、この不思議な庭は、世界の庭の歴史のなかでも、もっとも抽象的で、もっとも精神的な庭の一つです。今回は、水を消し去ることで、かえって深いものを表そうとした、この庭の世界を訪ねます。

水を使わずに、水を表す

枯山水とは、文字どおり「枯れた山水」、つまり水のない山水の庭という意味です。

白い砂や小石を一面に敷きつめ、その表面に、熊手で線を引きます。すると、その砂の模様が、波立つ海や、ゆるやかに流れる川に見えてきます。そして、いくつかの石を据えれば、それが険しい山々や、海に浮かぶ島々、あるいは滝になります。本物の水も、生きた草木もほとんど使わずに、雄大な自然の風景を表現してしまうのです。

これは、第II部で見た東アジアの「縮景」、つまり大きな風景を小さく写しとる技を、究極まで突きつめたものと言えます。実際の水を引くことすらやめ、見る人の心のなかにだけ、水を流れさせる。庭は、目に見えるものを、ぎりぎりまでそぎ落としていきました。

龍安寺、見えない全体

枯山水のなかで、もっとも名高いのが、京都の龍安寺(りょうあんじ)の石庭です。

白い砂を敷きつめた、長方形の庭。そこに、大小いくつかの石が、いくつかの群れに分けて置かれているだけです。花もなく、木もほとんどなく、土塀にぐるりと囲まれています。これ以上ないほど簡素な、静かな庭です。

この庭には、よく知られた仕掛けがあります。庭に置かれた石は、どの場所から見ても、すべてを一度に見渡すことができない、と言われています。一つの石が、かならず別の石のかげに隠れてしまうのです。全体を、いちどに把握することができない。この庭が何を表しているのかも、はっきりとは語られていません。見る人それぞれが、その心に応じて、自由に受けとめるよう、意味は開かれたままにされているのです。

心で完成する、禅の庭

枯山水が、ここまで研ぎ澄まされていった背景には、禅の心がありました。

第II部で見たように、禅は、悟りを、はなやかな飾りのなかにではなく、「何もない」ところに見ようとしました。枯山水は、その精神を、庭のかたちにしたものと言えます。余計なものをそぎ落とし、ぎりぎりまで切りつめることで、かえって深いものをあらわす。これは、墨一色で雄大な風景を描く水墨画(すいぼくが)の美意識とも、深く通じ合っています。

そして、この庭の大きな特徴は、見る人の心が、庭を完成させる、という点にあります。砂は、ただの砂です。石は、ただの石です。けれど、それをじっと見つめているうちに、見る人の心のなかに、波が立ち、山がそびえ、水が流れはじめます。何もないところに、見る人自身が、無限の風景を立ち上げる。枯山水は、見る人の想像力に働きかける、いわば心の鏡のような庭なのです。

だからこの庭は、なかに入って歩く庭ではありません。お堂の縁側に座って、静かにながめる庭です。そして、ながめているうちに、ざわめいていた心が、少しずつ静まっていく。枯山水は、座って向き合うことで、心を整えるための、瞑想の庭でした。

砂紋を引く、という行い

枯山水には、もう一つ、見落とせない側面があります。砂の上に引かれた、あの美しい波の模様、砂紋(さもん)は、永遠に固定されたものではない、ということです。

砂紋は、雨や風で乱れ、人が歩けば消えてしまいます。だから、僧たちは、くりかえし熊手を手に取り、砂の上に模様を引き直します。この、砂紋を引くという行為そのものが、心を集中させ、整えるための、修行の一つになっていました。

ここには、庭というものの、深い真実があらわれています。枯山水は、一度つくって終わりの、完成した作品ではありません。それは、たえず手を入れ、整えつづけることで、はじめて保たれる庭でした。完成しないからこそ、人は毎日その庭と向き合いつづける。この「終わらない」という性質は、じつは庭というものの本質に深く関わっています。その話は、このシリーズの最後のほうで、あらためて考えてみたいと思います。

枯山水が伝えるもの

枯山水は、私たちに、庭というものの一つの極限を見せてくれます。

それは、水を消し去ることで、かえって心に水を流れさせる庭であり、意味を語らないことで、かえって見る人に深く問いかける庭であり、そして、完成しないことで、人を毎日そこへ向かわせる庭でした。人がこの庭に求めたのは、目を楽しませる風景でも、誇るべき豪華さでもなく、心の静けさと、自分自身の内面と向き合う時間だったのです。

ながめる人の心が主役になる庭です。これは、世界の庭の歴史のなかでも、たいへん独特な達成でした。

次回は、同じ禅の心から生まれた、もう一つの庭を訪ねます。茶の湯のための小さな庭、露地(ろじ)です。そこでは、庭を歩いて通りぬけること自体が、心を整える道になっていました。


参考にした資料


── この章は、蔵書「庭の人文誌」の一冊です。

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