アルハンブラ、五感に向けてつくられた楽園

第II部で、イスラムの庭が「四つの川を持つ、楽園の設計図」だったことを見ました。今回は、その思想が、実際の庭としてどんなふうに結実したのかを、スペインに残る名高い庭を手がかりに見ていきます。

舞台は、スペインの南、グラナダです。そこには、中世のイスラム文化が残した、世界でもっとも名高い庭の一つがあります。アルハンブラ宮殿と、その庭です。資料や、訪れた人びとの記録によれば、ここでは、楽園が、図面としてだけでなく、水と光と香りに向けて細やかに設計された、五感の空間として実現していたとされます。

内へと閉じた、中庭の楽園

アルハンブラの庭の大きな特徴は、外へ開かず、内へと閉じていることにあります。

イスラムの庭は、しばしば建物にぐるりと囲まれた中庭、パティオとしてつくられました。外の世界に対しては高い壁を立て、その内側に、ひっそりと楽園をひらく。アルハンブラにも、こうした中庭がいくつも設けられています。すらりと並ぶ柱の回廊に囲まれ、中央に水をたたえた、静かで親密な空間だと伝えられます。

これは、第I部で見た「囲い込み」の、もっとも洗練されたかたちの一つと言えます。砂ぼこりや暑さや喧噪に満ちた外の世界を締め出し、壁の内側にだけ、水と緑とすずやかさの世界をつくる。中庭の楽園は、外に背を向けることで、かえって深く満たされた空間になっていました。足を踏み入れた者だけが出会える、隠された宝石のような庭だったのでしょう。

水という、庭のたましい

アルハンブラの庭で、もっとも重要な役割をになっているのが、水です。

細い水路が、中庭をまっすぐに貫いて流れます。中央の泉からは、いくつもの細い噴水が、静かに水を噴き上げます。そして、鏡のようになめらかな池が、空と建物を映しとります。水は、流れ、湧き、たたえられ、さまざまな姿で庭のなかにあらわれるように設計されていました。

このとき、水は、ただ植物を潤すためだけのものではありませんでした。流れる水のせせらぎは、耳に心地よい音になります。池に映る建物は、二つに増えて見えます。手をひたせば、ひんやりと冷たい。乾いて暑い土地に生きた人びとにとって、水のあるところは、それだけで天国のように感じられたことでしょう。アルハンブラの庭では、水こそが、楽園のたましいだったと言えます。

香りと、光と、木陰の楽園

アルハンブラの楽園は、目で見るためだけのものではありませんでした。それは、五感のすべてに向けてつくられていたとされます。

庭では、ミルテ(銀梅花)をはじめ、香りのよい木々や花が好まれたと考えられています。「ミルテの中庭」の名が今に伝わるように、香りは庭の大切な要素でした。オレンジやジャスミン、ばらなども、こうした庭を彩ってきました。風がそよぐたびに、あまい香りが運ばれてきたことでしょう。透かし彫りの窓やアーチを通して差し込む光は、繊細な模様を床に描きます。木々の葉が落とす影は、強い日ざしをやわらげ、すずやかな木陰をつくります。

水の音、花の香り、木陰のすずしさ、光と影のたわむれ。これらが一つになって、庭はまるごと一つの、心地よい場になるよう、計算してつくられていました。この庭がめざしたのは、ながめる絵ではなく、そのなかに身を置く者を、全身で包みこむことだったと考えられます。イスラムの庭は、聖典に描かれた天国を、これ以上ないほど豊かに、感覚へと翻訳してみせたのです。

スペインから、世界へ

このアルハンブラに代表されるイスラムの庭は、けっして一つの土地だけのものではありませんでした。

東は、前に見たインドのムガル庭園へとつながり、タージ・マハルのような壮麗な庭を生みました。西は、スペインのアンダルス地方に深く根づき、その後のヨーロッパの庭づくりにも、静かに影響を与えていったとされます。ペルシャに生まれた楽園の庭の血筋が、イスラムの文化とともに、地中海から南アジアまで、広大な世界へと広がっていったのです。

水を引き、囲いをつくり、五感に向けて楽園を組み上げる。この庭の知恵は、信仰とともに旅をしながら、行く先々の土地で、それぞれに美しい花を咲かせました。アルハンブラは、その壮大な物語の、もっとも輝かしい結晶の一つと言えるでしょう。

五感の楽園が伝えるもの

アルハンブラの庭は、私たちに、庭というものの一つの極みを見せてくれます。

それは、外に背を向け、壁の内側にひらかれた、隠された楽園でした。水を流し、湧かせ、たたえることで、すずやかさと音と光を生み、香りと木陰で全身を包むよう設計された、五感の空間でした。乾いた土地に生きた人びとが思い描いた天国を、これ以上ないほど具体的な、感覚の歓びへと近づけた庭だったのです。

人が庭に求めるものの一つに、この「心地よさそのもの」があるのかもしれません。理屈ではなく、水の音や、花の香りや、木陰のなかに身を置くだけで、心がほどけていく。アルハンブラの庭は、その素朴で深いよろこびのために、人がどれほどの知恵をつくしうるかを、何百年もの時をこえて伝えています。

次回は、まったく違う美意識を持つ庭の世界へ向かいます。山と水を小さく写しとり、自然そのものを庭のなかに招き入れた、中国の庭です。


参考にした資料


── この章は、蔵書「庭の人文誌」の一冊です。

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