仏教の庭、渡るための庭、心を空にする庭

ここまで、西アジアに生まれた一神教の庭をたどってきました。エデンを失ったキリスト教は、壁のなかに小さな楽園を取り戻そうとし、イスラムは約束の楽園を四つの水路で地上に写しとりました。

今回は、視点を大きく東へ移します。仏教の世界です。

ここで出会う庭は、これまでとは少し性格が違います。西の庭が「囲って所有する楽園」だったとすれば、仏教の庭は、どちらかといえば「向こう岸へ渡るための仕掛け」や、「心を空っぽにするための装置」という色あいを帯びています。庭が、楽園を見せるためではなく、人の心をべつの状態へ移すためにつくられる。そんな庭の考え方を見ていきます。

なお、日本の浄土庭園や枯山水といった具体的な庭の歴史は、第III部であらためて詳しくたどります。今回は、その土台にある仏教の世界観のほうに、目を向けてみたいと思います。

世界の中心にそびえる山

仏教の世界観には、須弥山(しゅみせん)という、巨大な山が登場します。

これは、世界の中心にそびえ立つとされる、聖なる山です。その周りに海と大陸が広がり、世界全体が、この一本の軸のまわりに秩序づけられている、と考えられました。いわば、宇宙の背骨のような山です。

この壮大な世界像は、庭づくりにも影響を与えました。庭の中心に大きな石や築山を据えて、それを須弥山に見立てる。すると、その小さな庭は、宇宙の縮図になります。石ひとつ、山ひとつのなかに、世界のすべてをこめる。仏教の庭には、こうした「小さな空間に大きな宇宙を映す」という発想が、深く流れています。

浄土という、もう一つの楽園

仏教にも、楽園にあたる場所があります。浄土(じょうど)です。

なかでもよく知られているのが、阿弥陀仏(あみだぶつ)という仏がいるとされる、西方の極楽浄土です。お経のなかで、その浄土は、おどろくほど具体的に描かれています。宝石でできた木々が並び、池には大きな蓮の花が咲き、美しい音楽が満ちている。苦しみのない、光に満ちた世界です。

このイメージにもとづいて、浄土をこの世に再現しようとする庭がつくられました。広い池を掘り、その向こうにお堂を建てて、阿弥陀仏の宮殿に見立てる。池に蓮を浮かべ、岸辺を浄土の風景に仕立てる。庭そのものを、極楽浄土の模型にしてしまうのです。

ここまでは、イスラムが楽園を庭に写しとったのと、よく似ています。けれど、仏教の浄土の庭には、もう一つ独特の仕掛けがありました。「渡る」という仕掛けです。

此岸から彼岸へ、渡るための庭

仏教には、此岸(しがん)と彼岸(ひがん)という考え方があります。此岸とは、私たちが生きている、迷いと苦しみに満ちたこちら側の世界です。彼岸とは、その向こうにある、悟りの世界、救いの世界です。

浄土の庭では、池がこの二つの世界を分ける境になります。手前の岸は、迷いの世界、此岸です。池の向こう、お堂のある岸は、浄土、すなわち彼岸です。そして池には、橋がかけられています。

この橋を渡るという行為に、深い意味がこめられていました。橋を渡りきることは、迷いの世界から悟りの世界へ、苦しみのこちら側から救いの向こう側へ、渡っていくことを象徴したのです。庭を歩き、橋を渡るという、ただそれだけの動作が、心を此岸から彼岸へと運ぶ、小さな儀式になっていました。

ここに、仏教の庭の、とても面白い性格があらわれています。この庭は、ながめて楽しむための絵ではなく、そのなかを通りぬけることで、人の心をべつの場所へ運ぶための、いわば通路だったのです。庭が、向こう岸へ渡るための仕掛けになっていた、と言えるでしょう。

禅の庭、心を空にする

仏教の庭には、もう一つ、まったく違う方向に進んだものがあります。禅(ぜん)の庭です。

禅は、悟りを、はなやかな浄土のイメージのなかにではなく、むしろ「何もない」ところに見ようとしました。空(くう)という考え方です。あらゆるものは、固定した実体を持たない。そのからっぽさに気づくことが、悟りにつながる、という教えです。

この精神から、水を使わずに水を表す、ふしぎな庭が生まれました。白い砂を敷きつめ、その表面に線を引いて、水の流れに見立てる。いくつかの石を据えて、山や島に見立てる。実際の水も草木もほとんど使わない、ぎりぎりまでそぎ落とされた庭です。

この庭は、何かを描いて見せるというより、見る人の心に働きかけます。ながめているうちに、見る人自身の心のなかに、水が流れ、山がそびえる。そして余計な思いが静まり、心が少しずつ空っぽになっていく。禅の庭は、楽園の絵ではなく、心を整え、空にするための、瞑想の道具だったのです。

泥の中から、けがれなく咲きのぼる蓮の花は、迷いの世界のただなかで悟りにいたる姿の象徴とされました。仏教の庭は、この蓮のように、ざわめく世界のなかに、静けさと気づきの一点をつくり出そうとしたのだと思います。

所有する庭から、心を動かす庭へ

仏教の庭が教えてくれるのは、庭が「心を動かすための装置」になりうる、ということです。

西の庭が、囲って手に入れる楽園だったとすれば、仏教の庭は、そのなかを渡ることで心を運び、あるいはながめることで心を空にする、はたらきかけの場でした。庭の主役は、見られる風景そのものよりも、むしろ庭と向き合う人の心のほうにある。そんな庭のとらえ方です。

人が庭に求めるものの一つに、この「心の状態が変わること」があるのかもしれません。庭に身を置くと、ざわついた気持ちが静まり、目の前のことから少し離れられる。その感覚は、はるか昔の僧たちが、橋を渡り、砂の庭と向き合うなかで求めたものと、どこか通じているように思えます。

次回は、同じ東アジアの世界から、もう一つの庭の系譜を訪ねます。不老不死の仙人が住むという、海の彼方の理想郷。それを地上に招き寄せようとした、道教と神仙思想の庭です。


参考にした資料


── この章は、蔵書「庭の人文誌」の一冊です。

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