庭は、砂漠に水を囲い込むことから生まれた

前回までに、garden(庭)も paradise(楽園)も、言葉の根をたどると「囲い込み」にたどり着くことを見てきました。今回は、言葉ではなく、実際の風景の話です。

人類で最初の庭は、どこで、どのように生まれたのでしょうか。その手がかりは、いまのイラクのあたり、メソポタミアと呼ばれる土地にあります。そして、その庭の誕生には、いつも「水」が深く関わっていました。

水を分け合う必要が、文明を生んだ

メソポタミアは、ティグリス川とユーフラテス川という二つの大河にはさまれた土地です。けれど、川のそばにあるからといって、簡単に作物が育つわけではありませんでした。雨が少なく、放っておけば乾いてしまう大地だったのです。

そこで人々は、川から水路を引き、畑に水を行きわたらせる技術を発達させました。これを灌漑(かんがい)と言います。乾いた土地に、人の手で水を導く仕組みのことです。

考古学の研究によれば、灌漑のこころみはさらに古く、紀元前6000年ごろの中部メソポタミアにまでさかのぼるとされます。そして紀元前4000年から3000年のあいだに、この地域の町や村は、しだいに大規模な灌漑による農業へと移っていきました。

ここで注目したいのは、灌漑がもたらした、思いがけない結果です。

水路を掘り、それを維持し、水を公平に分け合うには、大勢の人が力を合わせなければなりません。一人や一家族では、とてもできない大仕事です。この「共同で水を管理する必要」から、人々をまとめる仕組みが生まれ、やがて都市国家が、そして王国が、最後には帝国までもが立ち上がっていったと考えられています。

つまり、水をコントロールする技術が、文明そのものを育てたのです。庭は、この「水を制御して土地をうるおす」という大きな営みの、いちばん身近で親密な延長線上にありました。

ディルムン ── 水を贈られて楽園になった土地

メソポタミアの人々、シュメール人は、楽園についての神話を持っていました。そこにも、やはり水が決定的な役割で登場します。

その物語は「エンキとニンフルサグ」と呼ばれています。舞台となるのは、ディルムンという土地です。研究者の多くは、これを現在のバーレーンを中心とする、ペルシャ湾の一帯だろうと考えています。

神話のなかで、ディルムンははじめ、ただの土地でした。それが楽園に変わるのは、ある出来事がきっかけです。淡水をつかさどる神エンキが、この土地に水を贈ったのです。

水が与えられたその瞬間、ディルムンは一変します。病もなく、老いもなく、死も争いもない、清らかで豊かな園になりました。乾いていた土地に水がもたらされ、緑が芽吹き、秩序が生まれる。これが、シュメール人の思い描いた楽園の姿でした。

ここでも、楽園を楽園たらしめているのは、「水」です。前回見たペルシャの囲い庭も、水路で水を引いた場所でした。乾いた大地に水を囲い込むこと。それが、この地域に共通する「楽園の作り方」だったのです。

「エデン」という言葉も、この大地から来た

もう一つ、興味深いつながりがあります。

旧約聖書に出てくる「エデンの園」。この「エデン」という言葉の起源についても、メソポタミアにさかのぼるという見方があります。

じつは、「エデン」という言葉の起源は、はっきりとは決着していません。一つの説では、シュメール語の「エディン」、つまり「平野」「原野」を指す言葉に由来するとされます。これは神秘的な言葉というより、人の手の入っていない、ひろびろと開けた平らな土地を指す、素朴な言葉でした。もう一つ、ヘブライ語で「喜び」「うるおい」を意味する語に由来するという見方もあり、この二つの説は、いまも決着していません。どちらにしても、楽園の名が、もとは神聖な観念ではなく、土地そのものを指す言葉だったのかもしれない、という点は、心にとめておく価値があります。

では、シュメールの楽園神話やエデンの言葉は、どうやってユダヤ・キリスト教の聖書に流れ込んだのでしょうか。

一つの鍵が、バビロン捕囚(ばびろんほしゅう)と呼ばれる出来事です。紀元前6世紀、ユダの人々がバビロニアへ連れ去られ、長くその地で暮らした時代がありました。このとき、ユダの書記官たちはメソポタミアの豊かな文学に触れたと考えられています。そのなかには、ディルムンを「水にうるおされた清らかな園」として描く、シュメール由来の物語も含まれていました。

こうして、川のあいだの大地で生まれた楽園のイメージが、のちの聖書のエデンへと受け継がれていった可能性があるのです。

水を支配する者だけが、庭を持てた

ここで、一つ大切なことを書き添えておきたいと思います。乾いた大地に水を引くという営みは、けっして誰にでもできることではありませんでした。だからこそ、庭は早い時代から「力の象徴」になっていきます。

その代表が、古代アッシリアの王たちの庭です。紀元前7世紀、アッシリアの王センナケリブは、都ニネヴェに壮大な庭をつくりました。遠くの山々から長い水路を引き、各地から珍しい樹木を集めて植えたと、当時の記録は伝えています。乾いた土地に、王の力で水を導き、世界中の緑を一か所に集める。それは、王がこの世界を支配していることの、目に見える証しでした。

じつは、世界の七不思議として名高い「バビロンの空中庭園」も、この水を引く技術と深く結びついています。近ごろでは、空中庭園は本当はバビロンではなく、このアッシリアのニネヴェにあった王の庭だったのではないか、という説も唱えられています。その話は、回をあらためてゆっくり見てみたいと思います。いずれにしても共通しているのは、「高いところまで水を持ち上げる」という、当時としては驚くべき技術への、人々の賛嘆でした。

水をコントロールできる者だけが、緑の楽園を持つことができた。この事実は、のちの時代まで長く尾を引いていきます。庭が長いあいだ、王や貴族や宗教の力を示す装置でありつづけた背景には、この「水を支配する力」がありました。庭が広く一般の人びとのものになるまでには、ここからさらに、気が遠くなるほどの時間が必要だったのです。

庭が囲い込んだもの、締め出したもの

ここまでをまとめてみましょう。

人類最初期の庭は、乾いた大地に水を引き、緑を育て、壁や水路で囲い込んだ場所でした。庭が囲い込んだのは、水であり、緑であり、秩序です。そして庭が締め出したのは、その外に広がる砂漠であり、無秩序であり、究極的には死でした。

乾いた土地であればあるほど、水のある囲いは、まるで楽園のように見えたことでしょう。庭の起源には、この「水の支配」と「囲い込み」という、二つの力がはたらいていたのです。

このことは、現代に生きる私たちにも、静かに問いを投げかけてきます。私たちが緑のある場所に心を惹かれるとき、その奥には、もしかすると何千年も昔の、砂漠のなかの水を求めた記憶が、かすかに響いているのかもしれません。

次回はいよいよ、この「囲い込み」という庭の本質そのものを、正面から考えてみたいと思います。庭が線を引くとき、人は同時に、何を内側に守り、何を外側に追いやっているのでしょうか。


参考にした資料


── この章は、蔵書「庭の人文誌」の一冊です。

📖 「庭の人文誌」(目次)へ戻る

同じことを考えている、近くの棚: